「一首鑑賞」の注意書きです。
168.聖イグナチオ教会の昼の鐘が鳴るむろんわたしを慰めるために
(岡井隆)
前回の続きですが…。永井祐がこの歌について
「むろん」がノリノリで楽しい。
って書いてて面白いなって思ったので。
「短歌の<わたし>」で、
宇都宮敦が「わたしと世界」「わたしの世界」論において
「わたしと世界」
・「わたし」よりも世界の方がえらい感じ
・微量な世界への働きかけがあり、その働きかけに対して世界から見返りはないし求めていない
「わたしの世界」
・歌のモチーフの関係性がなんらかの象徴性を帯びていたり、自分の内面の反映したものとして描く
・世界を「わたし」に奉仕させる
このように定義し、「わたしの世界」の例として
灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ (岡井隆)
を取り上げ、
(前略)情景と心情の二パートからなる短歌において、心情が情景に対する意味的な喩になっていて、同時に情景が心情に対する像的な喩になっているというのがいわゆる「短歌的喩」です。この歌だったら、「灰黄の枝をひろぐる林」という情景が「亡びんとする愛恋ひとつ」のようだと意味的に喩えられていると同時に、「亡びんとする愛恋ひとつ」という感慨が「灰黄の枝をひろぐる林」のようだと像的に喩えられています。これが同時に成り立つということは、失われつつある一つの愛恋のために、林が灰黄の枝をひろげてくれていることを意味しています。そんなことあってたまるかと私なんかは思ってしまうのですが、実際、一回一回読むときは、どちらか一方でしか読めないはずです。(以下略)
と、やや批判的な論調で読み解いています。
つまり、「林が灰黄の枝をひろげてくれている」のは私の「失われつつある一つの愛恋のため」であるというふうに読めるが、まさか世界がそんなふうに「わたし」に奉仕するはずがないではないか、と。その読み方だと、この歌の「わたし」はナルシシズムにどっぷり漬かった状態です。前々回永井祐が書いていた、「近代の「我」って濃ゆくて疑いがなくてちょっと嫌ですよね、みたいなベタな議論」ともいえるかもしれない(近代じゃないけど)。
ですが今回この岡井隆の「むろんわたしを」の歌を読んで、もっとカジュアルに受け止めてもよかったのかな、と思ってしまった。つまり、「林は灰黄の枝を広げてくれる、むろんそれはわたしの失われつつある愛恋を慰めるため」みたいな、自分自身のナルシシズムを客観視しておちょくったような歌として。もしかしたら「ノリノリで楽しい」という永井祐の読みの方が、岡井隆スピリットに近いのかもしれないなぁと感じました。本当はどうなのか分かりませんが。
最近、藤井風の『死ぬのがいいわ』っていう歌を聞いていて色々考えたことがあって。
この歌、歌詞もタイトルも一見演歌っぽいというか昭和歌謡風なんですよね。
三度の飯よりあんたがいいのよ
あんたとこのままおサラバするよか
死ぬのがいいわ
死ぬのがいいわ
でも、あるインタビューサイトを見つけてその記事を読んでとても面白いなと思いました。
そこにはこうあります。
歌詞に出てくる「あなた」とは誰なのか問われると、藤井風は以下のように、意外な答えを返した。
「ワシ的には、自分の中にいる愛しい人、自分の中にいる最強の人にしがみつきたいと」
これにインタビュアーが「守りたい自分の中の大切な自分ということ?」と聞き返すと、藤井風は「そうですね。それを忘れてしまっては、死んだも同然、みたいな」と述べた。
インタビュアーが「自分との対話みたいな?」と確認を求めると、藤井風は「なってると、思うんですけど。本当にいろんな、誰もそんな解釈を、ほとんどしてないと思うんで。それがまた興味深いところでもあります」と話した。
これ読んで、ああすごいな、って思った。なんか人間の進化のようなものを信じました。
これは完全に何の裏付けもない妄想なんですけど、「近代」の「我」が「疑いなく濃ゆい」理由って、ほんとに死が近かったからだと思うんですよね。これは戦後くらいまでずっとそうで、「私」も「あんた」もいつ死ぬか分からなかった。だから「死んでもいい」って言葉はわりと身近だったのではと思う。実際心中が流行ったりとか定期的にあったみたいだし。普通に本心だったと思うんです。
一方で高度成長期以降平成あたりまでの「死んでもいい」は、ちょっとメタな視点というか、「あんたと別れるくらいなら死んでもいいと思っている私」みたいな目線を感じる。演歌のパロディ、という趣です。ここには疑いなく濃い「我」はいなくて、要は上に書いたノリノリの「むろん」みたいな感じなんです。ナルシシズムをちょっと茶化しているみたいな。シュールレアリスティックになり、視点がメタになればなるほど現代化してくるのかなって思ってたんです。
でも『死ぬのがいいわ』について藤井風は、「あんたとおサラバするよか死ぬのがいい」の「あんた」は「自分の中にある最強の人」、要は「自分自身である」と言っている。自分を「あんた」と表現している視線はメタなままなんですが、そこにパロディの要素はありません。もう一度「我」そのものに視点が返ってきているんですけど、いわばらせん状に視点が上昇しているというか、そんな感じを受けました。「恋人と別れるくらいなら死ぬのがいい」よりも「自分らしさを手放すくらいなら死ぬのがいい」という内容は、すっと胸に入ってきます。
短歌でも、「疑いなく濃い我」から「むろんわたしを」のような「我」をパロディ化する段階に達し、さらに今はもっと視点がらせん状に上昇しているのかな、と感じました。自分の読み方が合っているのかは分かりませんが、斉藤斎藤の短歌にはそういう「新しい<我>」みたいなものを感じます。自分が複層化している感じの。
真実に目覚めちゃったの信号の赤は私に向けたシグナル (yuifall)