「一首鑑賞」の注意書きです。
166.眉しろき老人(おいびと)をりて歩きけりひとよのことを終るがごとく
(斎藤茂吉)
砂子屋書房「一首鑑賞」で永井祐が取り上げていました。
この鑑賞文では、小池光の『茂吉を読む』(五柳書院)を引用しながら、「歩きをり」ではなく「歩きけり」と表現する茂吉の歌の面白さについて紹介されています。そう言われてみたので改めてググってみたのですが、
「~けり」は
①[過去]~た。~たそうだ。~たということだ。
②[詠嘆]~だった。~だったのだなあ。~ことよ。
だから、「老人がいて、歩いた」「老人がいて、歩いたそうだ」「老人がいて、歩いたということだ」「老人がいて、歩いたのだった」「老人がいて、歩いたのだなあ」「老人がいて、歩いたことよ」みたいな感じか。
一方
「~をり」は
~し続ける。~している。
だから、「老人がいて、歩き続ける」「老人がいて、歩いている」になります。
確かに、文法的には「~をり」の方が自然ですね。ここで「~けり」を使うテクニックや面白さについては元のページに完璧な説明があるので読んでいただきたいのですが、こういう感覚を掴むためにも、文語の歌の鑑賞は大切だなあと改めて感じました。
永井祐は小池光の読みに対してこう書いています。
うーん、「老人をりて歩きけり」からここまで進むのすごくないですか。
でも、斎藤茂吉の歌の感触を知っている者からすると、これは非常に本質的で、説得的な議論になっていると思います。
しかも主体が複数化・多元化するわけなので、近代の「我」って濃ゆくて疑いがなくてちょっと嫌ですよね、みたいなベタな議論と一線を画している。
そのうえで茂吉のヤバさも短歌の読みどころもよくわかって示唆に富む。
これ読んでて、斎藤茂吉の歌ってシュールレアリスム(超現実)みたいな感じなんだろうか…とか思いました。いや、私は斎藤茂吉の歌をそんなよく知らないので、永井祐の鑑賞文から受ける印象の話です。なのでそれが正しい感覚なのかは全然分かんないですけど。でも絵画や小説と違って、おそらくそこに「シュールさ」、現実を超えた「超現実」を感じ取るには訓練がいるんだと思います。
枡野浩一は文語短歌を現代人が作ることについて「英語で気持ちを伝えようとするようなもの」と批判していたのですが、それもとても分かるけど、作るかどうかはともかく読もうとすることは忘れちゃいけないなぁと…。
歌そのものを楽しめるとこまではいけてないんですが、鑑賞文とても面白かったです。
お願いよ私のことを殺してよ1000年経ってもそう言っててよ (yuifall)