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短歌の「私」 ⑥

『ねむらない樹 2020 summer vol.5』特集 短歌における「わたし」とは何か?

座談会 コロナ禍のいま 短歌の私性を考える

を読んで、歌の作り手ではなくて読み手の目線で色々考えてみました。

 

 過去記事です。

短歌の「私」 ① - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ② - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ③ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ④ - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌の「私」 ⑤ - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 ちなみに「月のコラムーリアリティの重心」には続きがありました。その名も「(追記)花水木の歌をめぐって」。

sunagoya.com

当時(2020年1月頃?)、かなり議論が紛糾したようです。「歌人みんな花水木の話してる」とも言われたらしい(笑)。

 その続きでは、

 

このあたりから、議論は大きく「歌人」の枠を超えていく。飯田和馬はツイッターのアンケート機能を使って、花水木の歌と構文が同じ二つの文章をつくり、それぞれどのような事態を思い浮かべるかを問うた。

 

「薬剤の投与があれより早くても遅くても彼は助からなかった」

「シナモンがあれより多くても少なくてもアップルパイは美味しくなかった」

 

驚くべきことに、二十四時間で約二万人が、これに回答。ここまでの反響があるとは、きっと飯田自身も想定していなかっただろう。

前者の文章で彼が「助かった」と解釈したのが37%で、「助からなかった」が61%。アップルパイは「美味しかった」が52%、「美味しくなかった」が46%と見解が分かれた。

 

とあります。確かに!「薬剤の投与」が特にしっくりきた。「早かろうが遅かろうが助からなかった」って言っているようにも、「適切なタイミングで投与したから助かった」と言っているようにも読めますね。アップルパイの方は「適切な量でおいしかった」と言っているように見えます。

 さらに面白いと思ったのは、

 

仮にここで花水木の歌が提出されたら、告げた/告げないだけではなく、「告げられなかった」の「られる」は可能ではなく受身ではないかとか、そんな意見が出てもおかしくない。

 

とも書かれています。そうか、「僕はあなたから愛を告げられなかった(あなたが僕に愛を告げなかった)」パターンね。おお。てことは、

 

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった (吉川宏志

 

という歌は、

 

①花水木の道が適切な長さであったために僕はあなたに愛を告げることができた

②花水木の道が例えどんな長さであったとしても僕はあなたに愛を告げることはできなかった

③花水木の道が適切な長さであったために僕はあなたから愛を告げられた

④花水木の道が例えどんな長さであったとしても僕はあなたから愛を告げられることはなかった

 

という4通りの読み方ができるというわけですね。わー、驚き。マジでびっくりしたわ。そうか、確かに読めるなー。

 

 この議論をずっと読んでて、一番不思議だったのは、なぜ最近になって「愛を告げられなかった」読みが発生してきたかということです。いや、もちろん、もともとそういう読み方はあったのかもしれませんが、議論の流れを読んでみると、私だけではなくてかつては圧倒的多数の人が「結局は愛を告げることができた」と解釈していたのが、最近そうでなくなったようなんですね。

 これは本当に「最近の若い人」の読みなの?もしそうだとしたら、一体何がそうさせるの?というかむしろ、上記のように4パターンもの読み方があったにも関わらず、それまでどうして全く議論になってこなかったのだろうか?不思議です。

 

 例として挙げられていた

「薬剤の投与があれより早くても遅くても彼は助からなかった」

読んでて思ったのは、多分、この読み方って、読者が最初に想定した「結果」や「状況」ありきなんだろうなと。「彼は死んだ」ということが事実としてあることを前提にすれば、例えば医者同士の症例検討会なんかで、「この患者さんにはどういう治療介入をすれば助かった可能性があっただろうか」って話し合ってて、「いや、薬剤投与があのタイミングよりも早くても遅くてもどちらにしろ救命の可能性はなかった」っていう状況であると自然に読み取れるし、「彼は生きている」ということが事実としてあることを前提にすれば、「早くも遅くもない適切なタイミングで治療介入があったからこそ助かったんだ」っていう状況であると自然に読み取れます。

 だから、もしかしたら「愛はどちらにしろ告げることはできない」っていう「結果」が先にある読み方、そういうムードの人が増えた、ということなのかもしれません。それが本当に「最近の若い人」の読み方かどうかはともかくとして…。

 

 最終的に土岐友浩はコラムの中で

 

花水木の歌に関して言えば、このテキストから「愛を告げられなかった」可能性を読むことは、間違いではなかったと僕は思う。

 

と言っていますが、読みに「正しい」「間違い」があるのか、という問題も私は以前から抱えていて、これに関してはまた長くなりそうなので後日考えたいと思っています…。

 

 この歌、私は『現代短歌最前線』のアンソロジーで初めて出会ったのですが、まあ歌集を読んだわけではないので状況の読みとして完全に正しいかは微妙ですけど、すっごいメタ的な読み方をすると、この歌が登場する以前も恋人はいて、この歌があって、しばらくして「妻」が出現するんですよね(笑)。てことはやっぱりプロポーズの歌じゃないかと思ってて、そしてもちろん「愛は告げた」し、返事はyesだったんだと思ってます♡そして相手が前田康子かと思うとめっちゃ萌えるわー。いいなー、こんな歌捧げてもらっていいなー(笑)。そういう意味では前田康子と永田和宏がうらやましい二大巨星ですね(笑)。

 

追記;上に「すっごいメタ的な読み方」って書きましたけど、実は短歌は連作ないし歌集で読まれるというのが当たり前だから、前後の状況から自然に内容を察する、というのがむしろ正しい読み方なのかもしれません。。だから、この歌について「愛を告げられなかった」可能性を読むことがもし「間違い」だとするなら、それは多分この歌の状況(前後の流れから読み取れる作者の個人的な状況)と異なっている、ということが言えるのかもしれません。

 ここでも、一作で読むか連作で読むか?作者のことを知って読むか知らずに読むか?という私の中にずっとある命題が試されている感じがしますが、少なくともこの一首を取り上げて、「愛を告げられなかった」可能性を読むことは否定できない、ということになりそうです。つまり、一首での読み、宇都宮敦の言う「つどつど読み」が受け入れられるということなんじゃないかな。

 

 次週に続きます。