「一首鑑賞」の注意書きです。
72.君が抱くかなしみのそのほとりにてわれは真白き根を張りゆかむ
(横山未来子)
この歌に初めて出会ったのは『短歌タイムカプセル』で、その時の感想でもピックアップしてました。が、その時はろくなこと書いてませんね…。
この歌は有名歌なのか、『桜前線開架宣言』、『現代歌人ファイル』でもたびたび引用されています。「心の花」のサイトでも自薦五首にあがっていました。
横山未来子には他にも好きな歌はいっぱいあって、その中でも
瞬間のやはらかき笑み受くるたび水切りさるるわれと思へり
あをき血を透かせる雨後の葉のごとく鮮(あたら)しく見る半袖のきみ
みたいな歌はわりとストレートに読めるのですが、冒頭の歌はストレートにすんなり読んじゃっていいのかなあ、って少し悩みました。
多分、「私はあなたの悲しみを吸い取ってそこにしっかりと根を下ろし、あなたに寄り添いたい」っていう意味なのかなって思ったんですよね。でも同時に、「あなたの悲しみこそが私の養分である、私はあなたの悲しみに寄生して育つ生き物です」とも読めそうな気もするし…。いや代理ミュンヒハウゼン症候群じゃあるまいし、「真白き根」のけがれないニュアンスからしてももちろんそんな意味合いじゃないだろうとは思うんですが、一応文法上はそういう解釈も不可能ではないですよね。なので、もしかすると他にも実は何通りも解釈があるんじゃないか、読み方があるんじゃないか、って想像が止まらなくなってしまって。
でも、ググってみると、作者自身の解説を一部読むことができ(『はじめてのやさしい短歌のつくりかた』のGoogle ブックスの試し読みページにひっかかりました)、ここではこう書いています。
植物が根を張って水を吸い上げるように、相手のかなしみを吸い取りたい、という願いをうたっています。植物のように……とはっきりいわずに表現した、隠喩の歌です。
とりあえず、ストレートに読んでいいということで安心しました。
それでも考えたのは、吉川宏志の「花水木」の歌みたいに、
短歌って全く真逆の意味に読まれたりすることってあるんだなあ、と。おそらく、作者は私が提示した2つ目の読みを、全く想定していないと思う(していたらすみません)。ここにあるのは全く無垢でまっすぐで清らかな思いだと思うのですが、文法的には真逆の意味にも解釈できるわけです。『ねむらない樹 短歌の私性とは何か』の座談会で斉藤斎藤が言っていた、「読者の「普通」の呪縛」ということを時々考えるのですけど、この歌に関しては、私は「多分美しい恋の歌として読んでよいのだろう」という「呪縛」、あるいは「先入観」がありました。今回は結果的にはそれでよかったわけなんですが、実は「先入観」「呪縛」があることで見落とされる解釈もあるのかもしれない、と考えたりしました。
それにしても、「根を張る」という言葉からは「ずっと寄り添う」という決意が感じられるし、「かなしみのほとり」という言葉からは、かなしみは少し吸ったくらいではなくならない、という現実が横たわっているように思われます。また、「悲しみを養分にする」とまではいかないけれど、ずっと寄り添っているためには「根」だって生きていく必要があるわけで、つまりは決して乾くことはない=かなしみは尽きることはない、という覚悟も伝わってきます。
やっぱり「ここに根を張った」以上そこには尽きない「かなしみ」があるのであろうし、「いつまでも幸せに暮らしました」とはいかない未来までもを分かち合っていきたい、ということなんだろうな。
やさしくはなかった きみは花束のようにわたしを捨てていいのよ (yuifall)
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