「一首鑑賞」の注意書きです。
160.十三階より眺むればあかときの救急車にはあぢさゐが似合ふ
(塚本邦雄)
砂子屋書房「一首鑑賞」で永井祐が取り上げていました。
塚本邦雄の歌を読むとしばしば、
「おまえオレに言いたいことあるだろう」決めつけられてそんな気もする
という俵万智の歌が頭に浮かびます。まさに「決めつけられてそんな気もする」っていうか…。「十三階」「あかとき」「救急車」ときて「あぢさゐが似合ふ」と決めつけられれば確かにー、って感じがしてしまう…。アジテーターの才能ありますよね。
この歌の「読み」については永井祐の鑑賞文が個人的には素晴らしくて特に付け加えたいこともないので、じゃあ何で取り上げたんだレベルなんですけど、単にこの歌初めて知っていいなあと思ったからに過ぎないですね…。敢えて付け加えるとすれば、紫陽花には毒性があるので更に「死」のイメージが補強されるという点でしょうか。
死、で花、っていうと通常連想されるのは曼殊沙華(彼岸花)、ユリ、菊、牡丹、あとは禍々しいイメージでダリア、くらいかなあ。そこに「あぢさゐ」を持ってきた発想が非凡ですし、妙な説得力もあって圧倒されます。やっぱり、絵が浮かぶところがすごいなあと。
だって、もしダリアとか彼岸花とかユリとかだったら、それらが明け方の救急車と一緒にある風景って、多分幻想なんですよ。街中でそんな群生しているとこ見たことないもん。でも、紫陽花だったらマンションの敷地内とかわりとその辺にたくさん生えてて、日常の光景なんです。だから、日常的に見ている光景が、「あかとき」「救急車」という二点の要素(さらに言えば「十三階」を含めた三点の要素)が加わったことで一気に異化されるというか。そこがすごいなと思いました。この紫陽花、何色なんだろうな。
永井祐は最後にもう一首引用しています。
われ死して三世紀後の獣園に象はくれなゐ蠍はみどり
これはかっこよく、同時に手癖で一瞬で作ったようにも見える。
「手癖で一瞬で作ったようにも見える」という言葉になんかどきっとしました。自分も、「なんかこういう歌作りがちだよねー」みたいな手癖で作る歌あって、きっと永井祐もそういう歌があるんだろうってこれ読んで思った。
私は、人の歌を読んでもどれが手癖で一瞬で作っててどれが苦心して作ったのか全く読み取れないんですけど…。同じ人の歌をたくさん読んで傾向とか掴まないと分からないんだろうなと思いました。「あぢさゐ」の歌も
先にやった感覚(イメージ)パズルと後の論理(数字)パズルが二重になっているような感じなのかなと思います。その連立方程式を同時に満たす解が「あぢさゐ」である。
と評していて、もしかしたら塚本邦雄自身も「手癖」でぱっと先にフレーズが思い浮かんで、後からゆっくり意味を考えたのかもしれないと感じました。まあ実際の光景だったのかもしれないですけどね。
冴えわたるサイレンよりも気にかかる見えない回転灯の明滅 (yuifall)