「一首鑑賞」の注意書きです。
147.突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼
(塚本邦雄)
この歌のことを何のきっかけで知ったのかは思い出せません。でも、最近色々考えたので引用してみました。
「読み」に関しては、単純に読むのはそれほど難しくないと思います。
突風に生卵が割れる→黄身が潰れ、白身と交じり合った状態で殻からでろりと流出する
という現象と、
かつて戦場で兵士が撃たれ、その眼が撃ち抜かれた→おそらくは脳を貫通し、脳実質などの組織と髄液が交じり合って頭蓋からでろりと流出する
という現象が二重写しになって提示されます。
生卵が「突風」に吹かれる状況下にある、という点はおそらくはフィクション(幻視)であって、どちらかというと「撃ち抜かれたる兵士の眼」の方が現実なのだろう、と感じます(実際に目撃した「現実」であるかどうかはともかく、どこかの戦場でいつかあったであろう「現実」として)。卵の殻、あるいは頭蓋骨といった「硬い」ものが一瞬にして砕け散り、日常や生命が奪い去られるという強い衝撃を覚える歌です。
詳細な「読み」は、プロの歌人の方がコラムを書いているのでそちらを参考にしていただいた方がいいと思ったのですが、
私が気になったのは、最後の「眼」の読み方についてです。おそらく、元の歌にはルビなどは振られていないようでした。初読では、「め」と読んでいました。「へいしのめ」と字足らずで終わった方が、「突風」によって唐突に奪い去られた生命を端的に表している歌として適切と思ったからです。
しかし、『橄欖追放』では
ちなみに、結句七音からして、最後の「眼」は「まなこ」と読むべきだろう。
と書かれています。確かに、「へいしのまなこ」とした方が字数はぴったりと合います。それに、「たまご」「まなこ」と呼応するような韻律としてもその方が響き合う気がします。
しかし一方、さらに色々と調べてみると吉川宏志のコラムに出会いました。
結句の「眼」は「まなこ」と読むのが通説であるが、私は「め」と読むほうがいいのではないかと考えている。「まなこ」だと、上の句の「なまたまご」と響きが合いすぎて、べったりとした感じになるように思う。むしろ「へいしのめ」と字足らずで読んだほうが、鋭い音感になり、歌の内容とも一致する。
これはあくまでも私の考えなので、反対する人があっていい。ただ、答えは一つに決まっているのではなく、別の方向もあるのだ、という広がりや余裕は持っておきたいのである。
どちらかというとこの読み方の方が私自身の感覚とは一致します。「へいしのめ〇〇」とその後で空白がある感じが、まだ生きるはずだった、続いていくはずだった命の終わりとしてふさわしいと思うからです。
どちらが正しいのか、というのは、塚本邦雄がルビを振らずに作品を提示したので、永遠に分かることはないのだろう。この歌から、短歌の「韻律」ということを考えました。
短歌はやっぱり「歌」なので、意味だけではなくてリズムや音も重視されるようです。私はそのような読み方は苦手なので今まであまり考えてはこなくて、人の「読み」を読んで「へえー」と思うだけだったのですが、この歌を読んで、短歌や詩など、「文字」の形式で発表される文学作品を、本当に「音読する」ことってできるんだろうか、って思いました。
「歌」は、リズムやメロディがあって、通常歌詞だけで読まれるということはないと思います(あったとしても、それが本来の読み方ではないということは分かります)。短歌も、「朗読会」などがあって、「音」も同時に提示されるような発表形式があるというのは分かっているし、どちらかというとそっちの方が「短歌」の本質に近いんだろうとは思います。ですが、以前にも『今を生きるための現代詩』(渡邊十絲子)という本を少し紹介したのですが、
そこには
安東次男の詩は音読できない、目でみるほかない
と書かれていました。その詩の一部のみを引用すると(本当は詩の一部引用ってあまりよくないとは思うのですが…)、
薄明について 安東次男
薄明を
そしきせよ
薄明
をそしきせよ
そこから
でてくるのは
無数
の
ぬれて
巨きな掌
無
数
の
ぬれて
巨きな足
(後略・ぜひ全文読んでみてください)
という感じです。確かに、音として読むことはできません。見て味わうしかないと思います。仮に
薄明を組織せよ
薄明を組織せよ
そこから出てくるのは
無数の濡れて巨きな掌
無数の濡れて巨きな足
ってすると全然違うものになってしまいますよね。でも、音読すれば(概して)同じです。
短歌で言うと、例えば永井祐の有名歌、
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね
これも、「君が言う」と「ぼくは」の間は二字空けになっていますが、それは音読できません(タメを長くすることはできると思いますが、二字空けの正確なニュアンスは伝わらないと思う)。あと、厳密にいえば、「きみ」と「君」、「ぼく」と「僕」も違うのではないかと思います。
もっと極端な例で言うと、加藤治郎の
言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!
とか、荻原裕幸の
▼▼▼▼▼ココガ戦場?▼▼▼▼▼抗議シテヤル▼▼▼▼▼BOMB!
みたいな歌、これは音読はできませんよね。「言葉ではない」わけだし。
突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼
を音として読むときに、
「とっぷうになまたまごわれ、かつてかくうちぬかれたるへいしのめ」
と読むのと、
「とっぷうになまたまごわれ、かつてかくうちぬかれたるへいしのまなこ」
と読むのでは、感じ方が異なるんじゃないのかなあ、って思いました。
そういうことを突き詰めると、文字として提示された時の印象ってとても大事で、「横書き俳句死ね」って発言(俳人の誰かが言っていたのですが思い出せない)も分かるし、俳句や短歌をwebページに引用する時に横書きで、しかも五七五七七の間が一文字ずつ開いていてさらに改行されていたりするとあーあって思っちゃうし、やっぱり本人監修の歌集で読まないと本当の「感じ」は伝わらないのかなあ、って思ったりもしました。
せめて誠実に読もうと思ったら、吉川宏志の言うように、自分の読み方、自分の解釈が絶対ではない、という意識は常にあった方がいいのかなという風に感じました。
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