いろいろ感想を書いてみるブログ

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間違った「読み」問題 ③

 詩歌における「読み間違い」問題について考えてみました。

過去記事です。

間違った「読み」問題 ① - いろいろ感想を書いてみるブログ

間違った「読み」問題 ② - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 次に、『今を生きるための現代詩』(渡邊十絲子)という本を読みました。中ほどに安東次男という詩人の詩がいくつか引用されていて、全体的にすごくかっこいいのですが意味はよく分かりません(笑)。ここで、

 

わからないことをうけとめて肯定すればいい

「知らない」「わからない」ということには独特の価値がある。

安東次男の詩は音読できない、目でみるほかない

 

などと書かれていて、詩の読み方の指南書としてすごく分かりやすい本だな、と思った一方で、以下引用ですけど

 

安東次男は丸谷(*丸谷才一や大岡(*大岡信にたいして常にいばりちらしていて(だいいち「宗匠」と呼ばせていた)、博識な芸術家である彼らをほとんど小僧あつかいするようなこともめずらしくなかった。それというもの安東次男には『芭蕉七部集評釈』という連句研究のおおきな仕事があるからなのだが、そこで見る安東次男はほとんど「荒れくるっている」といいたくなるほど、古今の高名な学者や芭蕉読みたちの解釈を罵倒したおしている。

 いわく、<解釈もここまで外れると手の施し様がない><これでも学問かと云いたくなるほどひどい話で、気分で解釈はできぬものだ><無くもがなの印象批評><思い入れの過ぎた、たわいもない作文>。

 これらがたんなる「罵倒のための罵倒」であったなら、『芭蕉七部集評釈』は人をひきつけはしないだろう。しかしこの仕事は「畢生の大作」とよびたくなるすばらしいものだ。罵倒にはそれだけのわけがあるし、安東次男の「読み」はたしかに「気分」や「雰囲気」ではない、まっとうに汗をかいてつくりあげたものだ。

 わたしはこれらの罵倒の裏側に、「こんなにはっきりとしたことがなぜ見えないのか」「誠実に見さえすれば誰にだってわかるはずだ」という強いいらだちを感じる。それを、詩人・安東次男の詩を読む(読めていない)人々へむけたいらだちと重ねて読むのは強引かもしれないけれど、それでもやはり詩人の内部にはいつも「もっと目をよくみひらいて、俺の詩の一字一字を穴のあくほど見ろ」という煮えたぎるような要求があったとわたしは思う。

 

 うーん。。こう言われちゃうと、やっぱり「わからない」では済まないのではないかという圧が強いですね(笑)。誠実に見れば見えると。つまり、意味が分からない私は作品に対して誠実な読者ではないのだろうか。

 

 私は、自分の根がまじめなせいか、逆に芸術に対してこう真剣すぎる人って読んでて疲れます。もちろん、批評は構わないと思う。批評とか研究についてはいくらでも真面目でいいし、真剣な議論を読みたいです。それに、自分や自分の芸術に対して真摯なのは構わないと思う。自分の人生、何に打ち込んでも自由でしょう。でも芸術家の厳しさが、自分だけじゃなくて他人の芸術に対する姿勢とか、自分の作品を理解できない一般人への批判に向かったりすると、疲れちゃう。勝手にしてよ、って思ってしまいます。

 例えば石田比呂志穂村弘を痛烈に批判したのは歌の内容だけじゃなくその生きざまだったし、斉藤斎藤は笹井宏之の詩性を高く評価しながらも、その作歌姿勢は受け入れていなかった。私はどっちかっていうと、「悲しき玩具」とか呼んで、俺のしたいことはこれじゃねーんだけど、みたいな感を出しながら手すさびに短歌を作ってた石川啄木とか、おばあちゃんを喜ばせたいから、みたいな理由で新聞に投稿し続けていた笹井宏之の姿勢、まあ要は全力で俺道を貫く!一首入魂!みたいな感じじゃない姿勢が好きで、だから、俺の言葉を読め!よく読めば分かるはずだ!みたいなのはね、やっぱり圧が強すぎるというか…。。別に、その辺のチャラっとした若者が、適当に五七五七七のリズムで作った適当におしゃれな歌が売れまくって絶賛されまくって何が悪いのか分からない。背景の思想性の有無や、表面だけの巧さかどうかって誰が決めるのだろうか?

 まあ、斉藤斎藤はその点、大きな誤読が生じないように(なのかは知らないけど)詞書という手段で短歌を相当説明してくれているので、絶対に誤読されたくないという信念があるからこそ読者の解釈に任せっぱなしにしたりはしない、というある種の親切さを感じますけど…。実際、『人の道、死ぬと町』は散文脳で読めるので読みやすいと感じましたが、結局のところその読み方で合っているのかすら私には分からないという…。