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小林恭二 『短歌パラダイス』感想 2-12「沈」

『短歌パラダイス』感想の注意書きおよび歌合一日目、二日目のルールはこちらです。

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 十二番目は「沈」です。

 

弥生尽日湯に沈むときわたくしはわたくしを抱くバラにあらねど (一郎次郎)

テノールが湖(うみ)に沈みしゆふぐれを金文字の本となりて歩めり (七福猫)

夏休みの朝の冷たさねずみとりの籠を沈めて脛までの川 (ぐるぐる)

 

 

弥生尽日湯に沈むときわたくしはわたくしを抱くバラにあらねど (一郎次郎)

 

 「一郎次郎」の歌から、岡井隆

 

薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ

 

を連想したのですが、やはり本歌取りのようです。「七福猫」チームに岡井隆がいるから挨拶歌であろう、と。こう比較すると、岡井隆の歌は「薔薇を抱く」なんですが、この歌は「わたくしはわたくしを抱く(バラではなくて)」という返歌のようになっていて面白いです。

 ところで冒頭の「弥生尽日」がそもそも分からずググったところ、「弥生が尽きる日」、つまり旧暦の三月末日とのことでした。陰暦では一月から三月が春であり、春の終わりを惜しむという意味だそうです。ただし新暦では三月の終わりに春を惜しむのはおかしいので、「四月尽」を使ったり、あるいはそもそも議論のもとになるから(現在の暦で三月尽を使うのはいかなるものか、という)あまり使われないそうで…。最初、句切れの感じから「弥生尽日」「湯に沈む」だろうな、とは思ったのですが「弥生」「尽日湯」で切れる、つまり薬湯みたいな特殊な温泉??とか想像してしまいとっさに意味が取れなかった…。言葉を知らないとがっかりですね…。

 

 この歌は旧暦で「春を惜しむ」の意味なのかと思いきや、特にそういう気配は歌の中にはなく、解説を読むと「この日がまさに三月尽であった」と書いてあるので、普通に三月三十一日です、という日付の意味合いのようです。状況を考慮すると、2日目の試合の歌は前日夜~明け方に温泉で作ったわけだから、お風呂につかりながら考えていて「そうだ、明日三月尽やん!」っていうのと、温泉+岡井隆から連想した歌なのかもしれません。

 今まで散々、歌合(や題詠)の歌は単独で解釈できるから面白いって書いていたのですが、こうして歌を読んでみると状況を加味した歌もそれなりにあります(「恋」という題で相手の名前を詠み込む、今いる場所を詠み込む、相手の歌を本歌取りする、自分の名前をもじって詠み込む、など)。そういう歌はやっぱり単独で読むよりも状況を併せて読んだ方が面白いですね。一方で、純粋な一首としては「実体が薄い」と評されています。

 

 

テノールが湖(うみ)に沈みしゆふぐれを金文字の本となりて歩めり (七福猫)

 

 「七福猫」の歌は、なんだろうなー。テノールが湖に沈む、というのは、おそらく誰かがテノールで歌っているんでしょう。この状況で知らん人っていうのもおかしいし、おそらくは恋人の男性です。でも歌ではないのかも、ただの声かもしれないな。何かしゃべってるんです。湖のほとりにいて、恋人の声が湖に沈むのを聞きながら、自分はその夕暮れを「金文字の本」になって歩く。

 「金文字の本」という言葉から、昔の、本が貴重品だった時代の重厚な本を連想しました。題名が金箔で印字されてるやつね。タイトルも『高慢と偏見』とか『恋愛論』とかそういうやつです。夕暮れの光を浴びて自分が物理的に金色に光っているように感じられる、という状況にプラスして、自分がそういう高尚な本みたいになって歩いている、っていうのを想像したのですが、これは精神的な何かじゃないかなぁ。あなたの声によって私は本のように開かれる、と取ってもいいのですが、どちらかと言うと「金文字の本」からは、埃をかぶって打ち捨てられた難解な本のように閉ざされる、っていうネガティブなイメージを受けます。テノールも「沈む」わけだし。

 どうも読みに自信が持てない歌です。。「湖」「ゆふぐれ」「金」って言葉からは湖畔の美しい光の照り返しが想像されるのに、「沈む」「金文字の本」が重なると、頭でっかちで恋愛に没頭できない私に、あなたはテノールで静かに別れを告げる。その声が湖に沈み、夕焼けが湖面に照り映える。私はただ湖のほとりを歩くだけ。みたいな光景を想像してしまって…。

 

 結局うまく解釈できません。ていうかそもそも恋とは全然関係ない歌なんだろうと自分でもどこかで思ってて、そこがまず引っかかる。しかしそうなるとこの「テノール」は何者?本当に100%心象風景として読むべき?小林恭二の読みにもいまいち納得しきれないし、人それぞれ全然感じ方が変わりそうな気がする。正解とかあるのかな?

 

 

夏休みの朝の冷たさねずみとりの籠を沈めて脛までの川 (ぐるぐる)

 

 「ぐるぐる」の歌は、子供ですね。夏休みの朝にねずみとりの籠を持って川まで歩いてくる。当然、中にはねずみがいるんです。まだ冷たい川に脛まで漬かって、籠を沈める。ねずみが死ぬまでを見守って引き上げる。一連の流れは別に「動物虐待」的なことではなく、単に昔のこと、というか、おそらく昭和の子供なんだろうな。朝、親に「ちょっとこれ、お願い」って頼まれて殺してくる、って感じです。死んだねずみは多分その辺にポイってしちゃうの。で、家帰って「ハイ」って籠差し出して、親も「ご飯できてるよ」みたいなのをイメージしました。

 

 

 どれか一首を選ぶとなったら、「ぐるぐる」だと思う。「一郎次郎」と迷ったのですが、意味をゆっくり解釈していくと「ぐるぐる」の方がいいなって思いました。

 

 「一郎次郎」は道浦母都子、「七福猫」は水原紫苑、「ぐるぐる」は永田和宏でした。

 「七福猫」の歌は奥村晃作に「無理猫」と言われたらしいのですが(笑)、何度も書くけど、水原紫苑の歌、常に意味が分からないんですよ、私。特にこの歌に限ったことじゃないと思うんですが…。この歌合だけでも、

 

パラシュートひらきし刹那わが顔のステンドグラス荒天に見ゆ 

雲は音符のたしかさに炎え(もえ)青年よきみはいかなる古代のコーダ 

テノールが湖(うみ)に沈みしゆふぐれを金文字の本となりて歩めり

 

ですよ?

 でもこれがさ、分からないからダメってなったら水原紫苑の魅力台無しだと思うんだよなー。「パラシュート」も味方チーム内でも解釈割れてたし、「古代のコーダ」も解釈できないって言われてたけど、別に分かんなくたっていいんじゃないの?歌合だから批判されちゃうのかな。

 

 

ALL IN 僕の手札を見透かして沈めたいならやってごらんよ (yuifall)