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間違った「読み」問題 ④

 詩歌における「読み間違い」問題について考えてみました。

過去記事です。

間違った「読み」問題 ① - いろいろ感想を書いてみるブログ

間違った「読み」問題 ② - いろいろ感想を書いてみるブログ

間違った「読み」問題 ③ - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 砂子屋書店のHPに一首鑑賞のコラムがあるのですが、私は平岡直子の理知的な文章のファンなので、平岡直子のコラムを真っ先に読んでいて、そこに

 

隠さずにどうしてそれを告げたのかはじめはまるでわからなかった (染野太朗)

 

という短歌が紹介されていました。

sunagoya.com

 なるべく解説を読む前に自分で色々考えたり感じたりしてみよう!と思って読んでいて、これは何らかの「隠してほしい」ことを、おそらくはわりとあっさりと告げられたシーンで、「はじめはまるでわからなかった」ということは、後からゆっくりとその意味が分かったのかもしれないと思いました。

 

 どういう場面かっていうのを想像したとき、やっぱり恋愛のシーンに当てはめると、「結婚していた」ことを隠さずに交際が始まったのかもなって思ったんですよね。すっごいテンプレなイメージだとこの歌の主人公は女性で、憧れの年上の男性と仲良くなって、一緒に食事してお酒とか飲んで、このまま…、ってとこで、「別にいいけど、俺結婚してるよ」って言われて、なんか釈然としないものを感じながら関係してしまい、あとから、あ、私、知ってしまった、共犯者だ、って気づくみたいな。

 もしくは全然状況が違うけど、告知シーンかな。自分は長男で、姉がいて、高齢の母親が癌で、母親は昔からすっごく心配性で過保護だったから、癌のことなんて母に告げたらきっとショックを受けるだろうから隠そう、って思ってるんだけど、母と姉で受診してあっさり告知されてきて、「なんで隠さないの?」って。お姉ちゃんは鼻で笑って、「今どき病名隠す人なんていないよ」って言って、母親は「仕方ないねぇ、手術のあと抗がん剤だってさ」とか言って意外に普通、みたいな。

 

 まあそういうことを空想していました。で、コラムを読んでいて、中ほどに正解?が書かれていて。

 

この歌は、連作中の直前の歌を参照すれば「それ」を指すのが「家族旅行」のことだとわかり、さらに歌集全体を参照すると「家庭を持つ人との恋愛」が浮かびあがってきて、やっとこの一首の意味は補完される。家庭のことを自分との関係に持ち込むのは無神経ではないのか、という非難の色がみえる歌だ。

 

ということだそうです。要は前後の歌を読めば、それほど不思議でも想像力を働かせて読まなくても構わない歌であると。

 コラムにはさらにこうあります。

 

そもそも前後の歌や歌集全体の文脈を参照しなければ内容がとれない歌を入れることは、散文的な読み方を読者に要求することで、歌集の要素の大半を占める「行間」を無視するということだ。行間もまた隠されたものといえる。そしてたしかにこの歌集には、「隠さない」ことへの過剰な要求がある。

 

 歌集には、具体的な数字や地名、自分の暴力性への言及があり、「自分を隠したくない」そして「あなたも隠さないでほしい」という要求のようなものを感じる、とあります。

 

 これってどう思いますか?「連作でなければ意味が取れない」歌を、連作から切り離して読むことは正解なのかな?私が上に書いたような「読み」も、一首鑑賞としては間違いとは言えないと思うのですが、歌集の前後に「正解」がある場合、これは「不正解」なんだろうか?

 そして、「家庭を持つ人との恋愛」「具体的な数字や地名」「自らの暴力性への言及」といった、歌集の主人公が作者そのものである、ということを主張するあるいは強力に示唆し、そこに読みを求めるようなやり方もあるわけです。正直、全然作者がどういう人かなんて分からないし、しかも、「あなたも隠さないでほしい」と言われても、こちらは作者に対して何もアプローチできないというかさらけ出しようがないというか…。

 ですが、穂村弘が「他者の読みをくぐることで歌にわたしの姿が見える」と言ったように、読者にとっても他者の歌を「読む」ことでそこに自分の姿が現れるのかもしれません。斉藤斎藤も「読み」には読者の「ふつう」の呪縛がある、と言っていたし、多分読むときに自分の思考の限界が見えるのかも。

 

 だからこそ、分からなくても好き、という歌には、自分の思考を超越した何かがあるんだと思います。

 

 このコラム、面白いので色々と読んでいて、都築直子の「一首鑑賞」で

 

行つてはだめよと言へばいつせいにふりかへるしづかな老人しづかな子供 (米川千嘉子

 

が紹介されていました。

sunagoya.com

 

 ここでは、この歌の謎を解こうとする試みがなされます。

 

謎かけのような歌だ。「行つてはだめよ」という〈わたし〉は何者か。「しづかな老人しづかな子供」は誰で、どこへ行こうとしているのか。なぜ「そこ」へ行ってはいけないのか。短歌は謎ときではない。でも謎のない短歌はつまらない。

あるいはこれは、世界の終わりの場面かもしれない。(中略)

あるいはこれは、神隠しに合う前の老人と子供かもしれない。(後略)

 

このように、たくさんの「読み」を投げかけた後で、コラムの最後にこうあります。

 

さて、歌集の中に置いて一首を読むと、まったく違う場面が立ちあがってくる。だが、ネタバレになることはいわずにおこう。いや、短歌は推理小説や映画ではないので、ネタバレというものはない。連作の中での読みがその歌の正解というわけではない。ともあれ、前後の歌を伴って読むと、この一首からどんな場面がひらけるかは歌集をひらいてのお楽しみ、なのである。

 

 これ読んでめちゃくちゃ感動しました。前後の歌を知っていても、それに依存しない読み方をこんなに軽々と肯定してくれるわけです。そればかりか、前後の歌を全く提示することなしに歌を紹介してくれるとは。この歌の状況を知りたい、と思う一方で、知る前にこの歌を一首だけで味わいつくしたい、という気にもなります。

 「連作の中での読みがその歌の正解というわけではない」とさりげなく断言されて震えました(笑)。連作の中の歌の立ち位置を知っていたら、そのように読むのが「正解」って思ってしまいそうだけど、一首で読んでもいいんだ、と。まあ個人の意見に過ぎないかもしれませんが、すっごく勇気もらいました(笑)。