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「一首鑑賞」-101

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

101.朕ひとりだめになっても朕たちの木型は朕のことおぼえてる

 (謎彦)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」で生沼義朗が紹介していた歌です。

sunagoya.com

 正直に言って全く意味が分からないながらもこのページをスルーすることはできないであろうという衝動に駆られてリンクを開きました(笑)。いわゆる「私が死んでも代わりはいるもの」的な感じなんでしょうか?でも「朕」という言葉からはもっと重々しい、要は宮廷にあってたくさんの側室を抱えて男児をたくさん産み、もし自分が死んだとしても弟たち、息子たち、甥たちがすぐに成り代わるだろう、という「血による継承」を連想させます。つまり、何らかの「血」さえ流れていれば自分でなくてもかまわない、という「木型」のようにも感じます。

 鑑賞文には、

 

作品を読むと、謎彦は「謎彦」なる、現実世界とは異なる世界の〈皇帝〉という作中主体像を作り上げ、一冊に展開させていることがわかる。

(中略)

謎彦の作中主体はもちろんギミックではなく、パラレルワールドの皇帝を短歌作品で立ち上げることにより、自己の文脈による世界の再編を試みたのである。また、一冊の方法論だけでなく歌からも前衛短歌の影響を強く感じた。その意味で謎彦は前衛短歌がかつて試行錯誤してきた私性を拡張し、衣鉢を継ごうとしたと言える。

 

とあります。つまりこの「朕」は現実世界とは異なる世界の<皇帝>ですから、もしかしたら本当に「木型」で量産された存在かもしれませんが、その点はここを読んだだけではよく分かりません。

 

 鑑賞文は、この歌そのものと言うよりも、この歌集自体を例にとって短歌の「私性」を論じています。この歌集で行われているのは、まるごと一冊の歌集の中に虚構の世界を構築するという試みです。作中主体は作者以外の人物ですが、一定した主人公であり、「謎彦」という<皇帝>が詠んだ歌であると納得できる歌集のようです。

 このような、実際の作者以外の「誰か」を作中主体に据えて一連の歌を詠むという試みって、珍しいことなのでしょうか?正直、短歌の外の世界からは珍しいことなのかどうかすらよく分かりません。

 

 生沼義朗は3回にわたって短歌の「私性」について論じています。この記事の前の前は田中ましろ

 

生きるとは硬貨を抱いていつまでも着かないバスを待つ人のごと

 

を引用しています。

田中ましろ/生きるとは硬貨を抱いていつまでも着かないバスを待つ人のごと – 砂子屋書房 一首鑑賞

 この歌が含まれる歌集は「若い夫婦の地方移住」を描いたもので、おそらく作者自身の背景とは異なっているようです。この歌集の特徴について、「作者=作中主体という私性のテーゼから逃れるための仕組み」と書いています。

 

 また、一つ前の記事

大村早苗/いつもいつもうつむき加減のアネモネの激しい色と弱さを嫌う – 砂子屋書房 一首鑑賞

では大村早苗『希望の破片(カケラ) 30ansストーリーズ』という歌集を取り上げています。この歌集は第六章まであり、それぞれ作中主体が全く異なる6人の30代女性という設定のようです。これについては当時書評で川本浩美が「短歌と小説では使命が異なる」と看破した、と書いており、なぜ小説にしなかったのか、と問題提起をする一方で、そのような「試み」が問題だったのではなくて、歌そのものの出来の問題だったのではないか、とも書いています。

 

歌はどの歌も解釈には迷わないが、かなりの通俗性を含んでいるのも事実だ。それゆえに何度読んでもリアリティが弱く、頭で作っている印象は拭えなかった。

(中略)

秀歌の比率が低かったゆえにそれほど話題にならなかっただろうことは否めない。逆に言えば、収められている作品が秀でていれば、エポックメイキングな歌集になったかもしれないのだ。

 

つまり、歌のレベルがもし高ければ、「自分とは背景が異なる複数の女性を主人公にした連作」として注目されていた可能性がある、と。

 

 これら2記事の後に「謎彦」が来ます。いずれも作者とは実際の背景が異なる作中主体を主人公に据えているという点で一致していますが、「謎彦」に関しては、すでに知られている歌人が「謎彦」を主人公にして歌集『御製』を作ったのではなく、「謎彦」名義の歌人が『御製』を作っているという徹底的なパロディ?作品であることがほかの2歌集とは異なっています。

 

 分からないのは、大村早苗の歌集に関しては歌の良しあしが言及され、更に「小説ではいけなかったのか」とその試み自体にも問題提起がされる一方、他の2作品に関してはそのどちらの点も議論されません。まあぶっちゃけ歌の良しあしは私にはよく分からないので置いておくとして、自分はそうではないけれど「若い夫婦の地方移住」を描く、架空の世界の「皇帝」になりきる、という試みが、「小説ではいけなかったのか」という観点から論じられないのはなぜなんだろうか。

 これに関しては「謎彦」の『御製』だけは、「謎彦」皇帝は短歌を詠みたかったのだ、というメタな理解ができるし、皇帝と短歌の相性もよくて面白いなーと私は勝手に思っているのですが、「若い夫婦の地方移住」と「30代女性の物語」に関してはそこのとこをもっとよく知りたかったなーと思ってしまいました。

 

 また同時期に斉藤斎藤の『渡辺のわたし』が出ていて、今でも「私性の拡張」というテーマで取り上げられることの多い歌集ですが、この歌集だけが注目されたのはどうしてなんでしょうね。時代?それともやっぱり歌自体のできの問題なんですかね?単純に「歌のできの問題」と考えた方がシンプルでいいような気もしますけど、いかんせんイデオロギーの転換には土壌が必要なことも否めないわけで、そこで何が起きたのか、もっと詳しく知りたいような気もします。

 

 

もうきみはサイバー上では死ねないの不死ってほんと死にたくなるね(yuifall)