「一首鑑賞」の注意書きです。
77.「天国に行くよ」と兄が猫に言う 無職は本当に黙ってて
(山川藍)
これは『ねむらない樹』という雑誌の対談で花山周子が紹介していたのですが、この時
「無職は本当に黙ってて」という言葉が一人歩きしたらかなり危なっかしい表現だと思うのですが、兄とわたしという限定されたお座敷内の言葉として、つまり「わたし」の範囲の言葉として歌が引き受けていて、安易に言葉を一人歩きさせない。「無職は本当に黙ってて」は世界に対する何かなわけではない。山川さんの歌というのは、そういう、「わたし」の自己完結のあり方が、現在の閉塞しつつ拡散するような言語状況を開放するようなところがあって。
と言っていて、
その時はその読み方に納得していたのですが、今回砂子屋書房「一首鑑賞」で染野太朗が紹介していた他の歌、
つまらない人間ばかり集まっている会場でいちばんのデブ
餌をやるこれは家族というよりは玩具か育たない赤ん坊
才能のない人はいてそれはもう生き方だろう近づかないで
みたいな作品と一緒に読んでいると、いや、そんな甘い読み方じゃないんじゃないか、って感じました。多分、「無職は本当に黙ってて」って言い方が「お座敷」の外で解釈されることを十分分かってて使ってる言葉だよな、と。
染野太朗はこれらの歌について
ちょっともう、自他に対する差別さえ読み取れそうな感じもしてきて、僕は読むのに苦しむ。あえて使用した「適切さ」という評語によっても到底評することができないような息苦しさを僕は感じる。「障害者」「デブ」「無職」「玩具」「育たない赤ん坊」「才能のない人」に対する読者としての態度を試されている気がする。なにかが突きつけられている。
と書いています。
この鑑賞文、すごい苦労のあとがうかがえますね。気持ち的には受け入れられないけど、無下に否定もしたくない、というか。大人になると、剥き出しの悪意に触れることってあまりなくなるので(そうじゃない環境の人はごめんなさい)、こういう言葉に直面するとびっくりしてひるんでしまう。個人的には森本平の
ひとりごとがかすかに聞こえ「ヤリ過ぎて腰が痛い?」だ ブスがよく言う
(森本平)
を思い出す感じです。
それにしてもこれらの歌の読みが難しいなって感じるのはどうしてなんでしょうね。もしこれがYoutuberの発言だったら「はぁ?また炎上案件やな」くらいでスルーなんですけど、短歌にされちゃうとそこに寓意を読み取りたくなってしまうのはなんでなんだろう。
最初は、文学形式に当てはめられてるから格調高いものと見なしちゃう自分の卑屈さなのだろうかと思ったのですが、それも違う気がする。Youtuberとかの炎上発言みたいなものだったらそれ以上裏を読もうとは思いませんけど、短歌にされると、つまりはこういう言葉を使ってわざわざ31文字、五七五七七にまとめ上げて歌集に収録しているわけで、「失言」レベルの話じゃありません。だから裏を読みたくなるのは仕方ない心の動きだと思う。
染野太朗は、
(歌集を読み終えて)閉じたすぐ次の瞬間に、なんだか怖くなって、また歌集をめくり始めてしまう。そのあまりにも個性的な主体を追うためではなく、この主体と対峙したときの自分の心の動きを追うために。それは、怖いもの見たさ、に近い。怖さの先に、自分がいる。本当におそろしい歌集だと思う。
と書いてます。
前も書いたんですが、
アメリカのイラク戦争に賛成です。こころのじゅんびが今、できました。
(斉藤斎藤)
紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき
(大辻隆弘)
みたいな歌と似てるのかなって思いました。作者の真意を読み取るというよりも、自分自身の立ち位置が問いただされるという意味で。
だけど、実感として難しいんですよね。仮に「読者としての態度」を問いただされているとしても、「才能のない人」とか「つまらない人間」ってどんな人?って考えちゃってうーんよく分からないな…、ってなってしまう。。
でもやっぱり、私は、失言として漏らしちゃうことはあるのかもしれないけど、剥き出しの悪意みたいなものを自覚した上で歌にするのは難しいなって思います。この人は自分の中の悪意により自覚的なんだってことだろうな、と。
きみの名を忘れてしまう
名じゃないね、個体識別番号のこと (yuifall)
*『サナギ』(スガシカオ)