「一首鑑賞」の注意書きです。
78.食べることのできない人に贈るため花はあるのか初めておもう
(吉川宏志)
砂子屋書房「一首鑑賞」で染野太朗が紹介していた歌です。
昔、病院の中とかそばには花屋さんがあったな、と思いながら読みました。いまではあまり見ませんし、病室に花を持っていく人もあまりいないのではないだろうか。ていうか、調べたら今はほとんどの病院で生花の持ち込みはNGだそうです。感染症とか花粉症とか色々ありますけど、そもそも誰が世話すんだよ問題もありますからね…。
ですが、「食べることのできない」くらいの病気となると、すでに緩和ケア病棟か自宅かもしれず、少なくとも急性期病床の入院ではないと思われます。だから花を贈れるのかもしれない。
「病室」「花」で検索すると、お見舞いには花はNGであるという理由を教えてくれるとともに、では何がいいのか?の提案として筆頭に上がるのが食べ物でした(あとは雑誌とか)。まあ食べ物もいいか悪いか事情が色々あるでしょうが、この歌では食べ物を贈ることができないからお花を贈る、という。ですが、この「花」のニュアンスは、食べ物のように何かを満たすというよりも、もはや「手向け」という意味合いに感じられます。
この歌は「コリアタウン」という連作の中にあるそうです。他に
銀器には蓮根キムチの盛られおり食べてきなさいよここしかあらへん
日本語に注文を聞き厨房にチゲを伝える声は鋭き
ゆうぐれに牛の白腸(しろわた)焼いており「旅」は「食べる」につながる言葉
といった歌が紹介されており、「生きる」ことと「食べる」ことが密接に伝わってくるような連作です。染野太朗は
「本来なら、食べる、ということを相手に贈りたいのだ」という心情まであるいは読み取れる。上に挙げた「「旅」は「食べる」につながる言葉」を踏まえるならば、旅をすることができない人に贈るのが花なのだ、ということでもあるのかもしれない。
と言っています。私は、「「旅」は「食べる」につながる言葉」を踏まえて、それでも、この文脈では「死出の旅に出る人に贈る花」、と読みました。この「初めておもう」は、この人も死ぬのだ、と初めて生々しく思ったということなのではないだろうか。
連作の中で、冒頭の歌は
桐咲けり 検査結果を知らせくる母のメールに句読点なく
この直後に置かれているようですので、この「人」とは母のことなのかもしれません。あるいは、母がメール送ってくるんだから父かな。
普段、親は先に死ぬだろうと思っていても、親の死をリアルに感じる瞬間って日常生活ではあまりないのではないでしょうか。親が食べることをやめてしまい、死期が迫る中、初めて「花」の存在を意識する。もう食べ物も何も欲しがらない親に、自分が最後にできることは何か考えた時に「花」しかないと思ったのではないだろうか。その時「花」が満たしてくれるのは、多分自分自身の心なのかなと感じます。親に、最後にせめて花をあげられたという思い出の中で。
なんだか宮沢賢治『永訣の朝』の「あめゆじゅとてちてけんじゃ」を思い出してしまいました。最後に何か食べるものをあげたいという気持ちと、そう望んでくれたことで満たされたのは自分の方であるという思いが。
誇らしくいつかあなたを恋ふだらうしづかに馨るしらぎくのはな (yuifall)
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