北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。
吉川宏志④
ゆうぐれは血が重たくて石壁に囲まれている地下に降りゆく
この歌読んだとき不思議に感じました。なんというか、ああ、男の人でもこんな風に感じるんだな、って。「血が重たい」って。男の人の身体ってもっと軽いのかと勝手に思ってた。こういう歌を読むと、なんというか、お互い尊重し合わなきゃなという気持ちになります。多分全然そういう意図の歌じゃないんだろうけど(笑)。
「石壁に囲まれている地下」はどこなんだろうな。実家のガレージに地下室あったなー、そういえば。コンクリートの壁に囲まれた物置だったのですが、子供心に怖かったこと思い出しました。単にそういう場所のことを言っているんでしょうか。それとも何かの隠喩なんでしょうか。
死ぬことを考えながら人は死ぬ茄子の花咲くしずかな日照り
この本はずっと前から持っていたのですがこの歌は当初それほど記憶に残ってなくて、堂園昌彦の
秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
を読んでから読み返したらあれー、この歌なんか似てるなーと思いました。吉川宏志の方が時代的には先なので、堂園昌彦の歌は本歌取りなのかなぁ?それとも、茄子と死って何か関連したイメージや、先行する有名歌があるんでしょうか。白桃の歌がよくあるように、特に本歌取りの意図がなくてもイメージが重なってしまうということはあり得ると思うのですが、どうして茄子と死なんだろう。
とはいえ、私の短歌ブームには『現代短歌最前線』を読んでた頃から『短歌タイムカプセル』に出会うまでかなりの空白があり、近現代の有名歌のこともあまり知らないのでなんとも言えません。後日分かったら追記するかもしれません。
ちなみに「死 茄子」でグーグル検索すると、茄子の実以外の部分にはジャガイモの芽で有名な毒成分のソラニンが含まれているらしいです。だから「茄子の花」はもしかしたら大量摂取すると死ぬのかもしれませんが、「秋茄子」では死ねないような気がします。
「檸檬」「林檎」「椰子」「オリーブ油」などと同様、文学上の何か固定化されたイメージが茄子にもあるんでしょうか。ちょっと分からないのですが…。
死ぬ力まだ残っているのかと黒ずみし祖母見下ろせるのみ
これも死の歌です。お祖母ちゃんは病んで小さくなって寝た切りになってしまっているのかな。「死ぬ力まだ残っているのか」と。そう言われるとどきっとしてしまいます。鬱病の人が鬱の極期にいるときって本当に動けないから死ねないっていう話をきいたことを思い出しました。ちょっと元気になったときにやる気が出て亡くなってしまう、ということを。
いつみても視界真白く死ぬるにも気力はゐると思ひてをりぬ (yuifall)
これほどの血を引きずって階段を上り続けるまた朝が来る (yuifall)
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