「一首鑑賞」の注意書きです。
12.そのままのきみを愛するなんてのは品のないこと 秋 大正区
(染野太朗)
砂子屋書房「一首鑑賞」で岩尾淳子が紹介していた歌です。
解釈以前に、ぱっと見のインパクトが強い歌です。クリックしてから染野太朗の歌と知っておおっと思った。
「そのままのきみを愛する」ことを「品のないこと」と言っていますが、この「きみ」は恋人なんだろうか。それとも、子供だろうか。そして人は、誰かを「そのまま」愛することなんてできるんだろうか。
英語の小説とか歌詞とか見てて、やっぱり日本語の言語感覚とは違うんだなって感じることの一つに、よくperfectというフレーズに出会う、ということがあります。恋人と出会うことで人生が完璧になるとか、きみは僕にとって完璧だとか、そういう意味合いで出現することが多いように感じられるのですが、個人的には人間が完璧である可能性なんてゼロであって恋愛対象の相手に全く完璧さを求めていないので、この感覚がよく分かりません。これって個人的な感じ方の違いなのか、文化の違いなのかどっちなんだろうと思います。そして、「そのままのきみ」が完璧であることはないし、恋愛という文脈においてありのままを愛するということはあり得ないのではないだろうか。観察されること自体が観察対象に影響を及ぼすわけですから…。
一方、子供を愛する場合はどうだろう。たいていの親は、生まれるよりも以前に、どんな人間かも全く知らない状態で子供を愛しているわけですから、それは「そのままのきみを愛する」ことではあるでしょう。それは本能的な愛情であり、「品がない」といえばそうなのかもしれません。しかしながら、全ての親が全ての子供を「そのまま」愛するかというのは微妙なところで、「俺の思う通りに生きないならばいらない」といった毒親パターンもあれば、子供がサイコパス的人格であった場合どう愛していいか分からないということもあるのかも。
解説には
昨今は男女というジェンダー意識が高まって、恋愛そのものがいくえもの意識にからまれて困難なように思える。そんななかで、やはりひとりの人を愛したい。愛する人を大切に思い、その人のすべてをそのまま受け入れて何ひとつ壊したくない、という切ないほどの恋慕が、抑制された文体にかえって深く刻印されている。
とあります。さらに、
しかも、結句に「秋 大正区」と、大阪でもとりわけ濃い地名を添えて、異質性を際立たせているところが心憎い。
ともあるのですが、「大正区」がどんな場所なのか全然分からないよ…。ググってみると「リトル沖縄」とか「港近くの埋め立て地」みたいな言葉にはヒットしますが、いまいちイメージできない。そしてこの「秋 大正区」が前半とどんな繋がりにあるのかよく分からん。
それにしても、時々考えるんだけど、例えばすっごく自信満々でばんばんお金稼ぐ人が好きになったとして、その人が何かのつまずきで仕事に失敗してそれと同時に自信もなくなって卑屈になってその状態が長いこと続いたらそれでも愛せるのだろうか?あるいは、全然お金稼げなくなって長い時間が経っても理由もなく自信満々だったら、それはそれで愛せるのだろうか?しかしそこで「もう付き合いきれない」ってなったら、それはお金目当てだったということなのだろうか?「そのままのきみ」とは何者なのだろうか?さらに言うなら、人を愛するのに上品である必要があるのだろうか?全てが分かりません。渡辺志保の
たった今全部すててもいいけれどあたしぽっちの女でも好き?
を思い出しました。全部ってどこまでが全部なんだろうな。
そういえばジェフリー・ディーヴァーのとある短編小説で、(ネタバレなので白字で書きますが)すっごい美女がストーカーに遭ってもう本当に嫌になって、不細工に整形して幸せになる話あったなー。ほんとに、「そのままのきみ」って何でしょうね。
こんな日にごめんねなんてずるすぎる彼女のことが忘れられない (yuifall)