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短歌と洋楽和訳メインのブログです

間違った「読み」問題 ①

 『短歌における「わたし」とは何か?』において、さんざん、作者の背景を知らないで読めば間違いになるのか?とか考えてきたわけですが、それ以前からもそれ以降も、読み間違い問題は私をいつも悩ませています。そもそも現代短歌の中には、現代美術同様、解読されることを前提に作ってないよね?って作品もあるように感じるし、そういうスタンスの作品って、別にどう受け取ろうがこっちの勝手じゃん?って気持ちになることもあり…。

 

 多分有名な話だと思うのですが、アメリカのアートフェア「アート・バーゼル・マイアミ・ビーチ」で壁に貼られたバナナに15万ドルの値が付けられた、ということが話題になったらしいです。しかもそれを食べちゃった人がいて、また新しいバナナが壁に貼られたとか(笑)。

 こういうのどう思います?この作品の斬新な手法、あるいはこの作品の背後にあるメッセージやイデオロギーに敬意を表し、あるいは感銘を受けて、高額の値をつける、というのは、芸術を支援するパトロンの姿勢として正しいと思う一方、バナナに15万ドル(笑)、って気もしますよね。しかし、98円と398円で全く同じ板チョコが売られていたとして、398円の商品がフェアトレードだったら、そちらにそのお金を払ってもいい、とも思うし、その分おいしく感じるような気もする。これは、自分の中で無形のものに支払える金額の限界の問題なのでしょうか。それともイデオロギーの問題なのだろうか。

 現代短歌でも、ええー?これはないでしょー、うーん、って思うようなやつも、プロ歌人が高く評価しているとそういうもんかなって思っちゃうし、自分の読みが他の人の読みと違っていると、自分の読み方間違ってるのかなってやっぱり思うし、あとは自分の読み方はどうしても浅いんじゃないか、っていうのはいつも感じるところです。

 

 私は普段短歌よりも小説の方をよく読むので、小説についてはある程度好みがはっきりしていて、自分の中で面白いと思ったものとつまらないと思ったものが割とクリアだし、ある程度は説明もできるし、もし他人と全然評価が違ったとしてもあまり気にならない。自分はAという作品はこういう理由で面白いと思って、Bという作品はこういう理由であまり好みでなかった、というのをある程度は言えるし、もし(批評家とか)その道のプロと意見が違っても、まあ、好みの問題だし?とかって思います。でも、短歌についてはそこまでまだ自分の好みもはっきりしないし、読み方もよく分かんないし、誰かに「AはすばらしくてBはつまらない」と言われたらそうなんだー、って思うし、だからこそ自分の感じ方、読みが合ってるのかいつも不安なんですよね。

 しかもほぼアンソロジーでしか短歌を読まないのですが、特にアンソロジー本を読んでいると、いずれも「これをきっかけにこの世界にもっと親しんでほしい」というコンセプトだからか、もっと気軽に手に取って下さい、どんな読み方でもいいんです、あなたの思った通りでいいんです、というメッセージが濃いです。しかし、それにつられてちょっと足を踏み入れると、特に短歌の世界では、歌を作っている人たちと歌を読んでいる人たちと歌を批評している人たちがほぼ重なっているせいか、めちゃくちゃ入りにくい。内輪ネタっていうか、作者のことも過去の秀歌のことも知らねーでとやかく言うんじゃねえ、みたいな空気を感じなくもないです。この人の歌なんだからこういう解釈だろう、みたいなメタな読み方が王道であるようにも感じるし。

 先ほどのバナナの例であげた通り、やった人が「誰なのか」によって評価されるのは芸術界では当然のことですよね。しかしその「誰」が分かっていない素人にはハードルが高すぎる世界に感じます。で、歌を作らず、歌人としてではなく読者として気軽にかかわろうとしても、北村薫とか東郷雄二みたいな「プロの読み手」じゃないと「読めていない」感が。

 逆に文法なんかを細かく論じてそこから正確な意味を読みとろうという「読み」も時々見られますが、短歌や俳句などの定型詩やメロディ付きの歌詞なんかにおける文法ってある程度の崩れが容認されているんじゃないかなぁ。もちろん助詞一つの使い方にこだわったり、一文字を足すか足さないかによって崩れるリズムによって意味が変わってくる、という読み方にはすごく感心させられますが、逆にそういうリズム重視、音韻重視で文法が多少崩れることもあるのではないだろうか。そもそも、主語+目的語&修飾語+述語、という形式に沿った歌って逆に少ないような…。あとは文法が完全に正しくても読み方によって意味が全く違ってしまう、ということはあるし…。

 

 このブログでは洋楽の和訳もアップしているのですが、英文を和訳するときって、やっぱり文法の問題があって、おそらく正しい訳と誤訳が存在します。ですが、歌詞って必ずしも正しい文法が使われてないし、主語が省略されていたり、メロディに合わせて文法上適切な構文の形式になっていなかったり、比喩とか韻文のために意味が無視されていたり、同じ文化圏の過去作品が底にあったり(人名やドラマ、映画からの引用、歌詞の引用など)ということは頻繁に経験され、一体何が正しくて何が間違っているのか、そもそもネイティブにも正しい意味は伝わってないような詞である以上、完璧に正しい邦訳は不可能だな、と思うことが多々あります。そして、同じ歌詞を和訳しているサイトさんをいくつか見比べて、みんな違うのに驚く(当然私も違う)。

 例えば主語も目的語もなく、文頭にいきなり動詞の過去形が配置されているようなリリックの場合、仮に恋の歌でそれまでにIとyouが出現していたとすれば、

(わたしが)〇〇をした

(あなたが)〇〇をした

(わたしが)〇〇をされた

(あなたが)〇〇をされた

(わたしは)〇〇をしたことがある

(あなたは)〇〇をしたことがある

という、過去、受動態、現在完了のいずれも成立しうるわけで、その本意は文脈から読み取るしかなくなります。そして、別に意味分かんなくても音楽として楽しむのは自由なわけで…。

 しかも、例としてあげたのは歌詞だからある程度は前後の文脈が存在しますが、短歌だとそういうものはありませんので、文法的に正しくても全く読みが変わる、ということはあり得ます。例えば「~される」には「~できる(可能)」と「~してもらう(受動)」と「~する(尊敬)」いずれの意味もあります。「生きぬ」だと「生きる」とも「生きない」とも読めます。まあ、そこを読み取るのに「前後の文脈」、つまり歌集における歌の位置づけや歌人の背景が用いられるのかもしれませんが…。

 

 結局のところ詩の解釈って、本当の正解には誰も(作者はどうか知りませんが)たどり着けないのではないかという気もしますが、それを踏まえても、やはり「間違い」「正しい」はあるのかと。

 

 次週に続きます。