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現代歌人ファイル その188-藤田武 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

藤田武 

bokutachi.hatenadiary.jp

やわらかきやみをはしれる死児たちの炎にわかるひときれの肉

 

 「反涅槃(ニルヴァーナ)へ」という作品からの引用だそうです。解説には

 

 幻想的かつ音楽的で、「死」をテーマとした歌が多い。そして「死」と「夢」はとても近い場所にあるものと捉えているのだろう。残酷な漆黒の世界が描かれているが、きらびやかな美しさもまた兼ね備えている。

 

とあります。

 それにしても解釈が難しいですね。こういう歌、具体的な何かの異化として読むべきなのか、それとも幻想小説的な読み方でいいのか、よく分かりません。こういうふうに迷うの、なぜなんだろう、って自分で思います。なぜなら、こういうテーマの小説とか漫画だったら「そういうもの」として素直に読めるからです。例えば夢野久作の『ドグラ・マグラ』とか、由貴香織里の『天使禁猟区』とかこういう空気感の作品ですが、「日常の異化だろうか」みたいな読み方しないですもん。なぜ短歌は一度「事実ではないか」フィルターをかけてしまうのか。

 

狂おしく紫陽花いろのかなたより夢に降れるわれやあやうし

 

 単純に、「そういうもの」として味わってもいいのではないのか、って思いました。その読み方が正しいか間違いかはともかくとして。

 

日日の翳負える時すぎ没しゆく終末にふたたびは血噴け緋桃よ

 

白桃の白毛そよぐ昧爽(よあけ)きてわが地には父の子殺し子の父殺し

 

 「桃」にまつわる歌も多数引用されています。何となくですけど、勝手なイメージとしてはこういう「死」や「罪」と相性のいい果実は林檎な気がするのですが、「桃」なんですね。桃は解説にもあるように、中国では魔除けとして神聖なものとされてきた果実で、日本でも女の子を守る「桃の節句」や、鬼を退治する「桃太郎」のイメージかと思います。一方で欧米圏では美味で繊細で傷物になりやすいという特徴から、「若く美しい女の子」「ふしだらな女」といった意味でつかわれる言葉でもあるそうで、筒井康隆の『家族八景』でも若い女性のメタファーとして水蜜桃が用いられていたのが強烈に印象に残っています。

 この人の歌では、桃が「血を噴く」「父の子殺し子の父殺し」とあり、既存のイメージにはそぐわない使われ方をしている印象です。解説では

 

桃の「魔」に魅入られ、その魔力を血へと変えてしまうようなおどろおどろしい世界観を想定しているのかもしれない。

 

とあります。

 なんか、後半の歌を読んでいて「桃太郎は実は鬼に捨てられた子であり、父を殺しに行く話」みたいなイメージが浮かびました。もしくは単に神聖なものを血まみれにするという「耽美」の延長上にあるのか…。

 

 最後に

 

反戦の拳(こぶし)くりかえしつきだすと肉体によせるわが韻律法(プロソディ)

 

遠ざかる闇の祭りのベトナムよひきつりてなおにがき咽喉(のみど)

 

のように、ベトナム戦争をテーマにした歌が引用されます。うーん、こういう歌を読むとやっぱり「日常の異化」なのかなぁ、って気もしてきますね。社会詠ですら、「耽美」的な彩りに満ちています。解説にも、

 

 「反戦」「ベトナム」といった単語から、この作品がつくられた時期がベトナム戦争と重なっていたのだろうことがわかる。しかし短歌全体がベトナム戦争を背景としているとはなかなか読み取りにくい。「火」のイメージに満たされた世界観は、単に戦争ばかりではなく人生そのものを取り囲む業火を見つめているように思う。燃え盛る地獄として現世を見る視線は暗く、それでいて格好いい。ロックな美学として味わえる歌である。

 

とありました。

 

 上に『ドグラ・マグラ』とか『天使禁猟区』とか挙げましたが、同じ作者が同じテイストで社会派小説とか漫画とか書かないじゃないですか。だからやっぱり散文と短歌とは単純な比較はできないなって思いました。三浦しをんとか桜庭一樹のエッセイ読んだりしますが、小説家が同じ文体でエッセイは書きませんよね。でも短歌はエッセイ的な内容もフィクションも(やろうと思えば)同じ作者が同じ文体で提示できるから、読み方難しいなって改めて思います。

 

 

緑青のケロイド縹色の瑕疵灰を抱きし空とこそ知れ (yuifall)