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関川夏央 『現代短歌 そのこころみ』 感想①

短歌は「物語」である

――寺山修司

 

の章の感想です。

 

 もともとカバー曲とか本歌取りとかが好きで、先行する作品を受けての創作というものに興味があります。それでgleeにめっちゃはまったんですが、短歌でも同様に本歌取りや先行作品からのインスピレーションが感じられる作品にときめきます。

 

 山田風太郎の『人間臨終図鑑』を読んだ時に、寺山修司の短歌が既存の俳句からの剽窃である、と書いてあって興味があったのですが、詳しく調べずにきました。まあ、もしかすると常識なのかもしれないんですけど、私はどの作品がどの俳句からの引用なのか知らなかったので。それが、関川夏央の『現代短歌 そのこころみ』に書かれていたので、すごく興味深く読みました。

 

 まず、中井英夫寺山修司を見出したときの状況をこう書いています。

 

秋、第二回の「五十首詠」は中城ふみ子の反響のせいか、初回の倍、四百ほどの応募があった。「短歌研究」編集長中井英夫杉山正樹とともに応募作を検討した。寺山修司の作品がよいことはわかったが、中井英夫は迷っていた。

(中略)

中井英夫が何かすっきりしなかったのは、「原稿を一読した時から感じた“贋の金貨”という思いを拭い切れなかった」からである。そこで一計を案じた。日本橋本町にある日本短歌社に本人を呼び、その印象で特選とするか推薦とするかを決めることにした。

 

そうやって出会った寺山修司を(色々あって)「特選」とし、当初「チエホフ祭」は絶賛されたそうなのですが、その後「盗作」の疑惑からバッシングにあったそうです。

 

 とりあえず「盗作」か「引用」かetcという問題は置いておいて、歌を引用します(短歌はいずれも寺山修司のもの)。

 

向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男

人を訪わずば自己なき男月見草 (中村草田男

 

わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る

わが天使なりやをののく寒雀 (西東三鬼)

 

かわきたる桶に肥料を満たすとき黒人悲歌は大地に沈む

紙の桜黒人悲歌は地に沈む (西東三鬼)

 

莨火を床に踏み消して立ちあがるチエホフ祭の若き俳優

燭の火を煙草火としつつチエホフ忌 (中村草田男

 

莨火を樹にすり消して立ちあがる孤児にもさむき追憶はあり

寒き眼の孤児の短身立ちあがる (秋元不死男)

 

 これに関して、「盗作」問題と、寺山修司の主張する「短歌の私性」問題がこのあと交錯してくるわけですが、とりあえず「盗作」問題から先に触れます。

 

「どうも中城の時ほど信用できない」と感じていた中井英夫も、俳句の知識はなかったため、引用作・類似作に×をつけることができなかった。寺山修司自身は、「時間がなかった」とうなだれるばかりだった。

だが、これは「盗作」といえるだろうか。「引用」または「コラージュ」という古くて新しい方法ではないのか。「時間がなかった」から「盗んだ」のではなく、「引用」や「コラージュ」が作品としてこなれるまでの「時間がなかった」とは考えられないか。

 

 「盗作」と「引用」「コラージュ」あるいは「本歌取り」の本質的な違いってなんでしょうか。最近、斉藤斎藤の『渡辺のわたし』『人の道、死ぬと町』読んだんですが、先人の短歌の本歌取りやパロディに加え、人の発言の切り取りやコラージュ的手法がふんだんに用いられていました。多くは脚注で引用元などの記載がありましたが、本歌取り、パロディ作品に関しては特に元歌の提示がないものも多く、ですが、普通本歌取りっていちいちわざわざ元の歌載せないよね??みんな、知っててくすっとなるやつじゃないですか?寺山修司が引用した俳句がどれほど有名な作かは分かりませんが、こんな形で発表すれば必ず類似が指摘されるのは分かり切っていたはずで、というか、短歌や俳句という短さで明らかな「盗作」は難しいような気もします。様々な言語表現に先例がある以上、これはやっぱり、読み手側の問題な気もする。「ああ、この歌(あるいは句)が底にあるんだな」という受け取り方か、「盗作だ!」という受け取り方か。

 こうやって短歌と俳句を並べて読むと、現代の感覚だと、俳句を読んで想像した世界が短歌の中に広がっているようにも思えます。

 

 さらに引用します。

 

 では、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」の歌はどうか。これも他人の俳句のコラージュで、堂本正樹はつぎの三句を探し出した。

夜の湖あゝ白い手に燐寸の火」 西東三鬼

一本のマッチをすれば湖は霧」 富澤赤黄男

めつむれば祖国は蒼き海の上」 同

 この場合は、寺山の歌のほうがはるかにまさっている。借語して、まったく別の詩境を生み出した。

(中略)

マチ擦れば二尺ばかりの明るさの中をよぎれる白き蛾のあり

 さらに、啄木のこの歌も寺山修司を刺激したかも知れない。啄木の変奏、あるいは本歌どりは、寺山修司の好んだところだ。

森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし」 修司

やはらかに積れる雪に熱てる頬をうずむるごとき恋してみたし」 啄木

ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」 修司

ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」 啄木

 

 なんか、ここまでくると、短歌や俳句は全てコラージュ作品なのではないかとすら思えてきます(笑)。

 正直、色々歌を読んでいると、あ、これ、他の人のこの作品と似てるな、っていうのは私レベルの経験値の人間ですら感じるので、歌人は日々意識しながら作歌したり、あるいは他の人の歌を読んだりしているのではないだろうか。で、今までに見たことのない歌を作るのと同じくらい、今までの作品を踏まえた歌作りっていうのも面白いんじゃないかって思うんですよね。ここまで引用元を提示されてなお、というよりも、さらに寺山修司の短歌の魅力が増した感じがするもん(個人の感想ですが)。

 

 長くなるので2回に分けます。

関川夏央 『現代短歌 そのこころみ』 感想② - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 ちなみに『現代短歌最前線』で小島ゆかり寺山修司について論じていたので、その章の感想のリンクも貼っておきます。

現代短歌最前線-小島ゆかり 感想5 - いろいろ感想を書いてみるブログ