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現代歌人ファイル その154-黒田雪子 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

黒田雪子 

bokutachi.hatenadiary.jp

白き機体羞(やさ)しからずや重力に抗して空(くう)の一点に消ゆ

 

若山牧水

 

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 

を連想させる一首です。こういう歌に出会うと言葉を失いますね。小島ゆかりの歌にも感じたのですが、ちょっと俳句っぽい静けさです。実際に俳句と短歌が癒合したような、

 

「霜夜かな古きノートを読み返す」死者の句ありき古きノートに

 

「耳鳴りや壁を這い居(お)る夜の蟻」芸術療法のぬるい午後

 

といった作品も引用されています。

 

 第一歌集「星と切符」を最後に歌を辞めてしまったのだそうです。その歌集は、20歳の女子東大生を主人公に設定した作品だとか。

 

はるかなる生まれ故郷の早乙女の祖母の旧姓をわれは知らずも

 

性転換する子持つよりマシよねとわれの〈思想〉を母は言うなり

 

われはいま生ける教養小説ぞみどり傷めぬ髪束ね上ぐ

 

解説には

 

この設定上の主体が作者自身の経歴とどれほど重なるかはわからないし、知る必要もないだろう。「生ける教養小説」とはすなわち今まさに成長の途上にあるという意識から来ている言葉であり、それが仮想とわかることでかすかな混乱を生み出す。また、ジェンダーに関心が深かったことも読み取れる。

 

とあります。

 「ジェンダー」というテーマで歌を詠む時、「女子東大生」という属性が持つ陰影を考えると、それが作者本人の経歴と同一でなくてもよい、とはもちろん思います。ちなみにご本人は1971年生まれで歌集は2010年なので「20歳の女子東大生」ではないことは明らかなのですが、過去の自分あるいはお子さん、もしくは教え子、といった誰かをモデルとして詠んだのかもしれないし、もしくは単に「女であること」と「日本で最高峰の学歴を持つこと」の葛藤を可視化するという意味合いなのかもしれません。

 でも、このような一種痛みのようなものは、「生ける教養小説」と自称できない女性であっても共有可能であるのではないかと思ったりもします。

 

 解説に

 

 冒頭の連作「朴の花・一九九二」は1992年の「短歌研究」に掲載されたものの一部だという。自己ベストはこれだと本人も書いている通り、凄みのある一連である。言葉の重さとパワーにあふれている。そしてどれほど書き連ねても結局のところ最初期の作品が最高傑作になってしまうという自覚が、黒田に歌のわかれを突きつけるようになったのかもしれない。短歌は、続けること止めることが人生そのものの問題として関わってくるような不思議な文芸形式なのだ。

 

とありました。

 確かに冒頭に引用した歌は美しいですが、その後のジェンダーを詠った歌、あるいは最後に引用される(いつの作品か分からない)

 

あまき果(み)に飽きこそ足らえ匙をもて皿にのこれる蜜を捨てにき

 

こういう歌もそれらに劣っているんだろうか。私は必ずしもそうは思わないのですが、確かに、最初期の作品が最高傑作として評価され続ける歌人もたくさんいるのは事実でしょう(私程度の知識でも何人か名を挙げることはできます)。

 ですが、山田航も「レトリック的な能力の低下はないまま、人生そのもののささやかな変化によって歌はできなくなっていくことがある」と書いているように、この人に関しては、必ずしも歌のレベルが下がったからというわけではなく、「これといった理由もないのに詠めなくなってきた」のだそうです。

 

 短歌をやったりやめたりを人生で何度か繰り返している私にとっては、短歌を「人生そのものの問題」として関わり続ける歌人がうらやましいような、そこまでハマることは多分ないだろうな、という諦めのような気持ちになります。

 でも、うろ覚えなのですが、枡野浩一が「短歌じゃなくてもいいなら短歌にするな」みたいに言っていたような気がするのですけど、人生の中に「短歌じゃなきゃだめ!」ってウェーブが時々来るので、私にも短歌に対するモチベーションはあるよなって思うようにしてます。

 

 

捧げ得ぬ実の空虚(うちぼら)を赦さむといふ道あらばあらば如何ならむ (yuifall)

 

本歌取り

さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云う人あらばあらば如何ならむ (与謝野晶子)