山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
菊池孝彦
いつの間に血を噴いてゐる手の甲の、こんな風に僕(キミ)は生きて来たのか
足音を引き摺つてゆく回廊のかげもかたちもわたくしである
「わたくし」「ぼく」「ボク」「われ」など、色々な言葉で自分が詠まれています。短歌って字数の制限やリズムがあるから、「ぼく」「わたし」「わたくし」「われ」「あ(吾)」など、自分を言い表す言葉を様々に使い分けるのは誰でもままあるかと思うのですけど、この人の場合はもっと違う意図があって色々な一人称を使っているように感じます。
特に「僕(キミ)」という使い方なんて見ると、自分の中に複数の人格がいる、というような感じがする。まあもちろん誰だって複数の人格はいるんでしょうが、その非連続性の程度が人によって違うんだろうな。解説には
菊池の思考の中で「私」自身は多様に分裂し、揺らいでいる。それが一人称というかたちで端的にあらわれている。(中略)きっと菊池の見ている世界は、分化しきれない無数の〈私〉という現象が、大量にうごめいているのだろう。
とあります。
存在の基準どこにもあらざれば「たつた一人」は揶揄のごとしも
自分の中に無数の「私」がいるから「たつた一人」は揶揄のごとし、なんだろうか。それとも、自分自身の「私」が揺らいでいる場合、「私」と「あなた」あるいは「私」と「誰か」の境界があいまいだからなんだろうか。
1962年生まれで子供もいる男性のようですが、その背景があってこういう感性を持ち続けられるっていうのはすごいなぁ。思春期くらいだったら「本当の私」を求める感覚って誰もが持っていると思うのですが、子持ちの中年となると全然位相が異なりますよね。
どんな人なんだろうって気になるのですけど、自分のパーソナリティについてはほとんど歌にしていないようです。自分の個人的な生活を全く詠み込まずに「わたし」のことをこれだけ歌にできるというのもまたすごいですね。
「わたし」以外のことを詠んだ歌も割と好きでした。
ほんのりとあたたかき夜性愛は手紙を出すにとどめおくべし
ふんはりと帯電したるセーターを着て歩みをり寒き廊下を
この中で、
あれはきつとさよならだつた手を挙げてボクを見た もう微笑んでゐた
という歌のみは、師である高瀬一誌の追憶だとか。
私自身は短歌の「私性」について論じた文章を読んだりそれについて考えたりするのが好きな反面、歌を作る時はその時々で勝手な一人称を気分で適当に使ったり自分自身のことを詠まなかったりして「私性」がわりと雑なので、
自我という観念への疑念が短歌のテーマとなっている。たった一人の私というのは本当に存在するのかという問いが繰り返し繰り返しあらわれる。
という作歌姿勢はとても興味深いなと思いました。
衝立の向こうでぼくが焼けていて時々腕が締め付けられる (yuifall)