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「一首鑑賞」-230

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

230.方角はわからないけど方向はわかる こっちは危険 わかるの

 (伴風花)

 

 これは山田航『トナカイ語研究日誌』からの引用です。

bokutachi.hatenadiary.jp

 『現代歌人ファイル』に取り上げられていた歌人でした。つまりそれは、私もこの記事をもとに感想文を書いたことがあるということなんですが、一体当時の自分が何を書いたのかこわごわと読み返してみたところ、いわゆる「各論」的な内容を書き散らかしていて、「総論」的な部分には全く触れられていませんね。まあ、歌集も読まずに「総論」的なこと言えるわけないんですけど。

 

 山田航は『桜前線開架宣言』で、東郷雄二のサイトの読者であることを語っているので、もしかしたら記事は『橄欖追放』を踏まえて書いているのかもしれません。伴風花の評として、ここでは

 

ここにある恋愛は「かぎっこ」的とでも言ったらいいのか、一人遊びの延長線上にあるような心の行き違い感がある。

 

痛いくらいの切なさはそこから生まれている。

 

痛みを抱えた他者の姿をあくまで真摯に見つめようとする意志が強く感じられる。突き刺さるような痛みを読んだ者にはっきりと与えてくれるという点で、伴風花は非常に力のある文体を作り出すことに成功している歌人である。

 

と書いています。これは「モノローグの深い寂しさ」「裸の<私>の痛ましさ」に共通する感覚です。

 

 前回、正直なところ「痛ましさ」についてはよく分からん、とか書いてましたが、過去の『現代歌人ファイル』の感想にも自分は似たようなことを書いてます。「痛いくらいの切なさ」というのはよく分からない、と。今読み返しても、よく分かりません。まあ歌集全体を読んでいないからかもしれませんが。『現代歌人ファイル』の感想記事では、「歌に出会った年齢、感受性の問題かもしれない」と書いていましたが、もしかしたら『橄欖追放』の2004年、『現代歌人ファイル』の2012年と比べて、今ではこういう歌が珍しくないからかもしれない。ノーテクで剥き出しの<私>をぶつけてくるような歌が、すでに一つの(逆説的に)テクニックとして確立されているからかもしれません。

 あと、私が思うのは、こういう<背景>がないと論じられているような歌は、多分<私>そのものであると同時に、誰でもないんですよね。<背景>がない気持ちだけの歌は、別に<私>である必要は全くないんです。冒頭に引用した歌なんかは、漫画だったら色んなキャラの吹き出しに入れてみることができる感じの言葉にも思えます。でも、だからこそ、「一人遊び」であると同時に「突き刺さるような痛みを読んだ者にはっきりと与える」ということになるのかもしれない。誰の言葉にもなり得るから。

 

 それにしてもですが、前々回記事にも書いたように私はこの人の作品の中でも「短歌的喩」が使われているものが最も好きだと思ったので、これはやっぱりある程度基本を踏まえた歌作りをした方が結局は心情も伝わりやすいということなのか、それか私の感覚が保守的なのか、どっちでしょうね。こうやって様々な評を読んで、引用されている歌も色々読みましたけど、やっぱり

 

このキスはすでに思い出くらくらと夏の野菜が熟れる夕ぐれ

 

が最高に好きです。

 

 

“生きづらい”って言っときゃいいと思ってるてきとーに何か属性盛ってね (yuifall)

 

 

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