「一首鑑賞」の注意書きです。
231.しばらくはだあれも飛び込まないプール揺れつつ光受けいれていて
(山内頌子)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで魚村晋太郎が紹介していました。
とっさに、競技中のプールだと思いました。屋外プールで何らかの大会をやっていて、競技と競技の間のしーんとした水面に光がさしている様子。もちろん、市民プールであるとも考えられます。市民プールでは1時間に1回くらい休憩の時間があって全員プールサイドに上がらなくてはならなかったりするので、その間、光がさすプールを見ている情景。でも、遊泳目的で解放されている時の市民プールって基本的に「飛び込み」NGな気がする。私はおそらく、この「飛び込まない」の一言で競技を連想したのだと後から気付きました。あるいは、学校のプールかもしれません。学校のプールは「飛び込み」することもあるし。
どんなプールでもいいじゃん、って思う反面、あの招集所での緊張感などを思い出すと、遊泳プールと競技プールの「揺れつつ光受け入れている」情景に見る心情は全然違うんじゃないかとも思う。作者の意図はどこにあるのか分かりませんが、人それぞれの思い出に重ね合わせて蘇る光景や思いが変わってくる歌かもしれないとも感じました。
魚沼晋太郎は、“人間関係”のメタファーとして読んでいます。
あるいは、親密な恋人がいて、ふだんは週末ごとに二人で過ごすのに、何かの都合で会えない休日があった。
さみしいのだけれど、ふだんと違う自分とひさしぶりに再会したような、新鮮な感じもする。
一首の主人公は、そんなときの気分に通じる、まぶしい空虚というか、のびのびした脱力感を陽射しのなかで感じているのだろう。
だあれも、という字あまりにも、そのあかるい、何もない感じがよく表れている。
誰とも共有しない自分だけの時間を、「だあれも飛び込まないプール」に重ね合わせる読み方です。こういう受け止め方もあるのか、と目から鱗でした。
さざなみを金にふちどりなめらかに海をつないでいく陽とおもう (yuifall)