「一首鑑賞」の注意書きです。
228.このキスはすでに思い出くらくらと夏の野菜の熟れる夕ぐれ
(伴風花)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで魚村晋太郎が紹介していました。
これはもう天才的にぐっとくるフレーズですね。「このキスはすでに思い出」。感覚的にとても理解できます。何かをしているのに、常に時間を早送りしている感じ。現実がすでに過去のものになっている感じ。もしくは、これが最後だと分かっている状態かもしれない。これは最後の思い出なんだ、と。
背景が「夏の野菜の熟れる夕ぐれ」なのがまたいいですよね。気温はまだ高くて、うっすら呼吸がくるしくて、空気が重くて、じわっと濃厚で甘い感じ。でも甘すぎないんです。「野菜」だから。
この短歌は自分の中で完璧な完成度だなって思ったので、作者名でググってみました。東郷雄二の『橄欖追放』で記事が取り上げられています。
2004年の記事なので、当時と今とではまた「短歌と<私>」のディスカッション内容は変わってくると思いますが、ここでは川野里子の
現代の若手歌人は、「古典から現代までの短歌に流れる縦の時間、そのさまざまな試みや議論を捨象した最もスリムな形をして」(川野)おり、「三十一文字と『私』だけが居る」(同)シンプルな形をしていると指摘している。
という指摘を引用し、「裸の<私>と三十一文字が向かい合う原理主義」について論じています。そして、その「原理主義」を貫くことで歌に何が反映されるのかも書いています。
〈私〉と三十一文字とが裸で向き合うという伴のようなスタンスは、実際の作歌にどのように反映されるだろうか。最も重要な帰結は「短歌的喩」の不在だろう。
「短歌的喩」とは、『短歌と<私>』の議論で何度か取り上げられた岡井隆の歌、
灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ (岡井隆)
に用いられている技巧です。
情景と心情の二パートからなる短歌において、心情が情景に対する意味的な喩になっていて、同時に情景が心情に対する像的な喩になっているというのがいわゆる「短歌的喩」です。この歌だったら、「灰黄の枝をひろぐる林」という情景が「亡びんとする愛恋ひとつ」のようだと意味的に喩えられていると同時に、「亡びんとする愛恋ひとつ」という感慨が「灰黄の枝をひろぐる林」のようだと像的に喩えられています。(宇都宮敦)
と解説されていました。伴風花の歌にはそれがない、と書かれています。
その中で、冒頭の歌が引用されます。そして
一首目には歌集中唯一と言っていい「短歌的喩」がある。
と評しています。
つまりは、私はあんまり伴風花という歌人の作風でない歌を好きになってしまったのかもしれない。言われてみれば、この歌は心情が情景に対する喩になっており、「くらくらと夏の野菜の熟れる夕ぐれ」は「すでに思い出になってしまっているこのキス」を像的に反映しているように思えます。
もう少し色々読んでみようと思います(次回に続く)。
タッチ板まで届かない明日には違うプールで揺れている月 (yuifall)