「一首鑑賞」の注意書きです。
227.やがて雨あしは強まり うつくしさ 遠くけぶったガードレールの
(宇都宮敦)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで山下翔が紹介していました。
ガードレールの歌です。
だがしかしガードレールにぶつかればガードレールの値段がわかる (木下龍也)
坂をくだれば腿の高さの突き当たりにガードレールが見えている坂 (斉藤斎藤)
とかも好きだったし、なんだか集めたくなってきます。
途中に挟まれる「うつくしさ」に心惹かれます。こういう言葉の使い方、小説でやってしまうと浮くんですが、短歌だととてもいいですね。最初から、足りないものを補って読もうとどこかで思っているからなんだろうか。
多分思い浮かべる光景も人によって全然違うんだろうなと思う。どんなパターンでも想像できます。都会でも田舎でも、徒歩でも車の中でも。だけど「遠くけぶった」という言い方からは、遮るもののない田舎道なのかなという感じがする。「雨あしが強まり」をダイレクトに感じるのは徒歩だからかもしれないけど、車の中にも思える。ワイパーの速さを一段階あげて、雨でけぶった遠くのガードレールを見てる。うつくしいな、と、不意に胸をつかれる。この「うつくしさ」の入り方には、不意打ち感があります。突然心に湧き上がる気持ちというか。見慣れたものが、突然胸に迫ってくるときのあの感じ。歩いていたらもしかして立ち止まったかもしれないけど、車だったら、停めはしない。そのまま走り去ってしまいます。一瞬の「うつくしさ」。
そんな時、どうしてか、孤独を感じます。一人きりであっても、例え誰かと一緒にいたとしても、同じ光景を見て同じ気持ちにはならないと思うからかもしれない。例えば圧倒的な景色だったら(グランドキャニオンとかナイアガラの滝とかエベレストとか)、きっと一緒にいる人も同じ気持ちだと思えると思う。でも、雨に遠くけぶったガードレールのうつくしさに不意に胸を衝かれるとき、ああ、孤独だ、と思う。きっと誰でもこんな気持ちになることはあるんだと思うけど、全く同じタイミングで同じものを見て共有できる気持ちじゃないんです。
それがこんな風に鮮やかに切り取られていて、いいなあと思いました。
星月夜打ち上げ花火の尾が揺れるここにいるのにきみに会いたい (yuifall)