「一首鑑賞」の注意書きです。
87.手套(てぶくろ)にさしいれてをりDebussyの半音に触れて生(なま)のままのゆび
(河野美砂子)
砂子屋書房「一首鑑賞」で澤村斉美が紹介していた歌です。
かつて楽器を演奏していた頃がありました。その時の感覚を思い出します。他の芸術活動(写真や美術など)は経験したことがないので分からないのですが、運動や文字を書く活動では味わったことのない感覚だったことを覚えています。
まだ音楽は形になっていない。というのも、半音に「触れて」という表現がとても繊細だからだ。その音を理解したり、つかみとったというのではなく、「触れて」。まだ遠く観念のなかにあるドビュッシーの何かに「触れた」と、閃くように感じたのだろう。「生のままのゆび」には、おどろきや震えを含んだ静かな高揚感がある。その感覚ののこる指を大切に「手套」にしまう。
とあります。音に「触れる」、それはおそらくピアノの黒鍵に(「半音」だから)「ゆび」で「触れる」ということでもあるかもしれないし、ドビュッシーの伝えたかったであろうものに心で「触れる」ということでもあったかもしれません。それを「てぶくろ」にさしいれるのは、その感覚をそのままにとっておきたいという気持ちなのかな。大切に包んで誰かに差し出したい、ということではないような気がします。おそらくそれは鑑賞文にもあるように、まだ理解したり、つかみとったりするというところまで行っていないから。
他にもピアノに絡んだ歌が2首引用されており、どうしてか、胸が痛むような気持になりました。音楽が曲りなりにも生活の一部としてあった時の気持ちを思い出したからでしょうか。まったく箸にも棒にも掛からないレベルで下手だったし、練習とか「好きだった」とは決して言えないのですが、それでも思い返すと切ない気持ちになります。そして、このように音楽を歌にできる人の短歌に、苦しいくらいに憧れます。
魂は才に宿るか努力にかフランツ・リストの意地悪な笑み (yuifall)