「一首鑑賞」の注意書きです。
27.童貞に向けられている放送を処女の私はひっそりと聴く
(川島結佳子)
これ読んでちょっとびっくりしてしまいました。砂子屋書房「一首鑑賞」で久我田鶴子が紹介していた歌です。
「童貞に向けられている放送」ってなんだろう。ラジオかな。鑑賞文には
「童貞」も「処女」も、セックス未経験者ということでは同じはずだ。だが、そのことをオープンにして笑いに落とすことは、「童貞」には出来ても「処女」にはまだまだハードルが高いようだ。(中略)
それにしても、「童貞の誰か」に出来ることが、何故「処女の私」には出来ないのか。男女の違いは、こんなところでも意識させられることであった。
だからといって、ここで作者は異議を申し立てているわけではない。自らの置かれている位置を、まさに「ひっそりと」歌にしてみた、といった風情である。そこに何を感じとるかは、読み手に委ねられている。
と書かれています。
ところで、若者の恋愛離れ、生涯未婚率の上昇が指摘されている昨今、ポリティカルコレクトネスの機運も高まる中、「童貞」が笑いになるのかどうかよく分かりません。この「男女の違い」というのは、選ぶ-選ばれる、という側面もあり、それではどちらが「選ぶ」側かというと難しいところです。生物学的には、一般論ですけど、生殖に際して圧倒的に優位なのはメスです。でも、人間の場合は生殖後に長期におよぶ妊娠、育児期間があることから、その間の生活を保障してくれる男性側に「選ぶ」側面があることも否定できません。
思うに、男性の「童貞」がもし笑いになる要素があるとすれば、
①そもそも三次元の女性との間の性交渉を希望していない
②「今は」童貞であるが、お金を稼いでのし上がることでそうでなくなる可能性もあるだろう
③いざとなったらプロにお願いするという手もある
などといった前提条件があげられ、いずれにおいても精神的な要素(愛する女性に選ばれていないからこそ童貞なのであるという)を削ぎ落して考えることができそうですが、一方女性は、と考えると、どうでしょう。圧倒的に腕力で勝る男性と裸で2人きりになるわけです。暴力、STD、妊娠、隠し撮り等の不安を超えて身を委ねるには、やっぱり精神的なつながりを求めてしまうのではないかな。だから、「処女」という状態には(成人であることを前提としてですけど)、どこか「選ばれない女」という影が付き纏うように思われたのではないだろうか。
前にピーター・レフコート『二遊間の恋―大リーグ・ドレフュス事件』という本を日本語訳で読んでいて、ゲイ男性が男性との行為の後、相手に女性との性経験を尋ねられて「俺は処女だよ」って答えるシーンがあるんです。文脈から「処女」って単語にすごい違和感で、おそらく原語では I am a virgin と言っているのではないだろうかと考えました(原語見てないので分かんないけど)。gleeでも何度かそういう台詞ありましたけど、男女関係なく「純潔である」という意味合いでvirginが用いられるんですよね。まあ、この場合には全く純潔ではないので、「女性との経験がない」と訳するのが自然な気がします。この文脈だと「処女」とか「童貞」とかって言葉はあんまり適切でないように感じた。
この歌読んでこのシーンを連想して、いくつかのことを考えました。まず一つ目は、もし英語だったらこの「童貞」「処女」のニュアンスの違いが正確に伝わるのだろうか、ってことです。これは、virginという単語にどういうニュアンスを読み取るべきなのか体感として分からないので知りようがないのですが…。
あとは、私は完全に異性愛者女性としての立場から読んでいたのですが、性的マイノリティの立場からするともっとニュアンスが変わってきてしまうよなーと。解説の「読み手に委ねられている」の言葉通り、そういう目線からの読みにも触れてみたいと感じました。
このページでは、最後に3首の歌が添えられています。
「ねぇセックス、してくれないかな」と私言うお冷の氷からから揺らし
進化だと君は言うのだ尾てい骨さすり階段おりる私に
うん。何も変わっていない私は悩む処女から悩む非処女へ
これ読んですごく悲しかったけど、やっぱりここでも「男女の違い」ってことを考えました。もし作者が男性だったら、「ねぇセックス、してくれないかな」でしてくれる女性はいるのだろうか。もしいたとしたらそもそもそこまで童貞ではいないのではないか。
そして結局、精神的なつながりとは全く無関係のところで行為のみが行われたわけで、冒頭の歌における「処女」のイメージに付き纏っていた「選ばれない女」という影は全く払拭されていません。だから、「悩む処女から悩む非処女へ」なったのは全く不思議でもなんでもなく当然の帰結であり、だけどそのこと自体も行為がなかったら実感することはなかったのかもしれないと思うとやるせない気持ちになります。
しかし、本当に幸せで全て捧げてもいいって思って初めての経験をする人ってどのくらいいるのかな。川野芽生の
強ひられて嫁したるごとし 女(をみな)としてこの世へいたる閾(しきみ)越へにし
という歌がありましたが、なんかもうそういうものとして生きていかざるを得ないのかもしれないなってちょっと思いました。だから、この人も、すでに経験済みであるということで何らかの軛から解き放たれ、男性から選ばれるかどうかで自分の価値は決まらないということに気付くことができるのならばそれはそれでよかったのかなって気もします。
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