不定期読書感想文。
以前の読書日記
で書いた通り、本気で合わなかったので以下、かなり辛口感想です。感情を害されると思う方は読まれないことを本気でお勧めします。以下畳みますし改行挟みます。
えー、これ、面白いか?なんか…。ちょっと合わなすぎた。いくら19世紀とはいえ、主人公がワトソン(一応だけど医学博士)に設定されているにも関わらず生物学的知識がなさすぎる感じするし、世界観が破綻してませんか?最後はラノベかよっていう雑さだったし。文体とペダンティックさで重厚感出してるけど、内容は微妙じゃない?
まず第1章から、「女性のクリーチャー」が出てきて「まさかそんな、女性を…」みたいな発言があったので女性がクリーチャー化されることは全く一般的でなく、この人がポイントなのかな?と思いきや、彼女の動きが他の屍者と違うのは「東側の未知のプラグインだか機関が書き込まれているらしい」と「女性」であることは完全にスルーされます。いや、一般的なクリーチャーと違うものが一般的でない動きしてたら、普通性差も原因の一つである可能性は当然考えますよね?もうこの時点で科学どころか「結論ありき」って感じで萎える。しかも後から
目をとめた女性を拉致し去り、屍者化を施しコレクションしていた城主。(中略)幼い娘の愛らしい姿を永遠に留めるために屍者化を実行した人物。
など屍者がらみの事件がたくさん描写され、全然女の屍者珍しくないじゃんってなった。最初の設定忘れてないか?後からこの事実が分かったとして、ここで一つくらいリアクションがあってしかるべきじゃない?ここに女を持ってきた意味全くなかったし一体何だった?「女王陛下の治世で女性をクリーチャー化するなんて…」とか言ってますけどイギリス以外の国には全然関係ないし、その理屈で言うとトップが王だったら男は屍者にせず戦わせないということになりますがそんなことあり得る?
そっからしばらくRPGみたいな、本丸を追いながらも辿り着けず色んな場所で他のイベントをこなす…みたいな描写が延々続き(カラマーゾフの無駄遣い)、その間イスラム教徒や日本人など様々な人々の文化に出会います。で最終的にラスボスであるフランケンシュタインの怪物=ザ・ワンに出会い、そいつが人間界ではチャールズ・ダーウィンの名を名乗っていることを知るのですが、ダーウィンの理屈がめちゃくちゃすぎて激萎えた。ここがこの世界観の見せ場なのに論理が破綻しすぎててもうどうしていいか分からん。そもそもこの人、人間の起源の根拠として挙げてるの聖書ですよ。聖書、創世記、「ジャーンの書」。でアダムがどうだリリスがどうだとか言ってます。そんなこと言わせるならなんでダーウィン持ってきた?人間の起源がアダムではないと主張したのが『進化論』でしょ?だいたいここでヴァン・ヘルシングとザ・ワンが「進化」について論争するのおかしくないか。ダーウィンがそれを提唱していない世界線なら「進化」なんて発想自体が存在しないでしょ。進化とかじゃなく、生物はおしなべて神が完成形を作ったのであって、その中でも神を模して造られた人間は最初から特別だったと主張するのがキリスト教じゃん。ここではヴァン・ヘルシングが「人間は進化の頂点である」と主張し、ザ・ワン=ダーウィンは「人間は他の生物と変わらない」と言っています。「人間はあらかじめ特別な存在として造られた」とする一神教と「人間は他の生物から進化して今の形になったのだ」とする進化論の主張を踏襲しているようで、位相を明らかにずらしてますよね。ヴァン・ヘルシングが「進化」って言葉使うこと自体がおかしいのよ。
このザ・ワンの長い語り、あまりにも矛盾や詭弁が多すぎて読んでるのきつかったです。「Aなんだよ。だからBも正しいよね!」みたいな語りが延々続くので、いやBが正しいかどうかは分からんだろ、ってなる。さんすうできない人なの?「人間だけが魂を持つという考えは正しくない。生命には等しく魂がある。ただし人間にだけ特異的に作用するある菌株が存在し、それが人間に見せかけの意思を持たせているから人間だけが魂を持っているように見えるのだ」と言い、この「菌株」は人間の体内でのみ活性化されて「意識」を生じさせるのだ、と言っておきながら、その数行後に「この菌株は人間と長く共生関係にあったと考えられる。間抜けな猿がこの菌株に感染し、自分が意思と思うものを持ったのだろう。意思を持つのだと信じ込まされた。それは当面、生存に有利に働いていく」と、急に『進化論』的なこと言ってきます。いやその理屈は成り立たないだろ。読んでる方は「ダーウィンは『進化論』の提唱者であり人間は猿から進化した」という思い込みがあるから読み流しそうになっちゃうけど、この世界線でのザ・ワン=ダーウィンは、進化論なんて唱えてないし人間が猿から進化したなんて一言も言ってません。むしろ「この菌株は他の動物の体内では無害であり人間の体内でのみ活性化して意思を持たせる」と言ってるわけだから、嚙み砕いて言えば「猿を含めて他の動物がこの菌株に不顕性感染していることは珍しくない」「猿を含めた人間以外の生物に感染しても活性化しない」「つまり猿に意思を持たせることはできない」「人間は最初から人間であって、だからこそこの菌株によって意思を持たされている」と主張しているということになります。これは『進化論』とは真っ向から対立する立場であって、いきなり「猿に感染して意思を持ち、生存に有利だから人間になった」みたいな言いぐさはあり得ないのよ。それだったら現存する猿に感染させれば意思を持つってことになっちゃうじゃん。DNAの変化の継承、進化と違って菌感染の症状は一世代以内に出ますからね?てかそもそも、猿にも他の生物にも意思はあるんじゃ?
そして同じページ内で、「当然、証拠を示せと言われるだろう。しかし証拠は君たちも既に見てきたはずだ」とか言ってますが、見てきたのは「現象」であって「証拠」ではありません。「現象」を説明することができる仮説は無限にあり、それを証明するのが「証拠」です。これがダーウィンの語りとするのは無理ないか?しかも聞いてるのワトソンですよね?2人とも科学者じゃないのか。馬鹿じゃないのか。さらに同ページ内で、「更なる確証のための実験はほんの一つですむ。菌株を人間から分離して言葉が通じるか見てやれば良い」とか言ってますけど、そもそもこの菌株って人間のどこにいるわけ?どうやって分離してどうやって培養すんの?その条件が正しいか、本当にそいつがそれなのかどうやって検証すんの?人間の外部で「言葉が通じた」ら、「人間の体内でしか活性化しない」という前提と明らかに矛盾しますけど?屍者やら人造人間やらが跋扈するこの世界観における「人間」の定義って何?このへんのたった15行だけでもツッコミどころや矛盾が多すぎないか?そもそも「魂」は21グラムとかいう設定どうなったわけ?その菌株と21グラムって何の関係あんの?
その後「菌株が派閥を形成し争い合っている」とかいうの読んでマジでやる気なくなってこれ読む価値あるかぁ?って思いながら読み進める。「この菌株の言葉はリリスの言葉なのだ」あー、そうすか。「証拠が提出されるまで納得できないというのなら『菌株』ではなく、未知の『X』と言い換えてもいい。『魂』でも『意識』でも『欲望』でもかまわない」いやー、かまいます。「菌」と「魂」「意識」「欲望」は言い換えられないだろ。ワトソンも納得しないでくださいよ。アホなんですか。さらに「分離したX――菌株の非晶質体だ」とかって青い小石が出てきて、なんやねんとなりました。物理的に存在すんの?賢者の石か?ご都合主義極まってないか?
「言葉」「感染」「自由意志」という、『虐殺器官』や『ハーモニー』の伊藤計劃のニュアンスを加えようとしてこんなことになっちゃってんの?作者が2人いるから世界観が嚙み合ってないのか?なんかとてもちぐはぐな印象です。「感染」に関しては、これより以前のワトソンとバーナビーの会話で、
「あんたは、生命とはなんだと思う」
笑い飛ばされるかと思ったが、振り返ったバーナビーは不思議そうな顔で淡々と告げた。
「性交渉によって感染する致死性の病」
という発言もあり、いやまるで決め台詞みたいになってるけどそんなわけねーじゃん。「性交渉」とか「感染」とか「病」とか言いたいだけでしょ?中二病ですか?この定義だと大好きな「菌株」も含めて単細胞生物は生命じゃないことになりますけど?ある種の植物とか、全く同じDNAを受け継いでいく単クローン生殖の生物は原理的には性交渉もしないし死にもしないけど?バーナビーがそう思ってるのはともかく、ワトソンは突っ込まないの?いやしくも医師なんじゃないのか?生命について知らなすぎでは?それとも人間以外は生命ではないという何らかの原理主義なわけ?
最終的に「死者の門が開く!全祖父が復活する!」と、昔のアニメかよ…みたいな展開になり、「ハダリーの手で、石が小さな薄いカード状に変形する」って、マジでご都合主義極まりすぎててもう逆に笑うしかないよね。菌株=X=石がパンチカードに!これが菌の意思!なんじゃそりゃ。んで最後さすがに無理あると思ったのかヴァン・ヘルシングが「菌株なんて与太話だよ。Xは『言葉』だ」とか言ってくるんですが、そんなんで納得できるわけないし…。やっぱ伊藤計劃風味出そうとしてる?ってメタな情報が脳裡をちらついて全く世界観に没入できません。
まあ、言葉が人を操れるというロジックはある程度分かるんですよ。この間も兵庫県知事選のSNS戦略が問題になってましたが、SNSなどを通じて言葉の力を効果的に使えば一定数の人間を操ることはできると思う。そういう意味で『虐殺器官』は面白いなと思ったのですが、一方で(『虐殺器官』の感想 読書日記 2024年11月13-19日 にも書いたけど)しょせん弱者を殺し合わせる手段にしかならないよなとも思った。というか『虐殺器官』ではそれが一体何なのかについては語られてなかったけど、はっきり言って現状を見るとそれはナショナリズムだよね。愛国主義という意味ではなく、「自分が属している属性と異なるものを排除する」という意味でのナショナリズムです。右派と左派、保守とリベラル、プロレタリアートとブルジョアジー、男と女、白人と有色人種、キリスト教・ユダヤ教とイスラム教など、要は自分の属するイデオロギーを唯一無二と信じさせ、絶対の忠誠を誓わせることが虐殺器官だと思う。だからそれは結局マジョリティ側が勝利し、弱者から簒奪する手段でしかない。
まあちょっと話は逸れたけどこの小説の話に戻ると、『屍者の帝国』でも「言葉」がキーワードとして何度も出てきますが、ここでX=菌株だとすると「菌株には(原始の世界共通言語である)リリスの言葉が作用し、それで操ることができる」というロジックは(はっきり言ってくだらないとは思いつつも)まあそういう世界線ね、ってことで片付けられるけど、X=言葉だとすると、そもそも物質化しているあの石の説明とか詭弁極まりないけど、「X(=言語)が人間に意思があるように見せかけているのだ」という理屈になってしまい、非言語的な意思表示やハイコンテクストな意思疎通についてはどう説明するんだろうか?むしろそちらの方が原始的な“人間の意思疎通”なのでは?また、バーバルコミュニケーションそのものも実はハイコンテクストな文脈の中にあり、その作用は土着のもので、あるコミュニティの内部でそれを共有している人間にしか基本的には届かないのではないだろうか。だからこそSNSの力が現実に作用した時、ここまで多数派になったのかと驚かれたのでは?この小説のメインキャラクターたちは英語圏、キリスト教の文化圏という狭いものの見方でしか世界を見ていないから世界中が自分と同じコミュニティ内にあるとでも言いたげな傲慢な発言ができるのではないか?
てか、結局「アダムとリリス」「バベル以前の共通言語=リリスの言葉」「エデン」がどうこうってキリスト教の世界観で世界は成り立っているという設定のまま終了し、え、イスラム教徒とか日本人とかと出会って世界を見た結果これ??世界を旅した意味??ってなった。これ、作者が西洋人なら別に驚かないよ。普通にこういう考えで生きてる人なんだなって思うだけだし、そういう小説よくあるし。でも日本人でしょ?医者である主人公が世界を旅して様々な価値観、宗教観の人々と出会い、19世紀という科学の世紀を舞台にし、ダーウィンまで引っ張り出しておきながら、キリスト教的世界観を脱して科学の世界へ、グローバルな時代へ…(しかしそれは必ずしもユートピアへの道ではなく、ナショナリズムの台頭による大帝国同士の世界大戦、科学による大量虐殺の20世紀へ…)というラストにならないなら、なんで宗教なんかモチーフにした?無意識にこういうオチにしているなら西洋中心主義に毒されすぎだし、意識的にやってるなら西洋の小説の悪意あるパロディにしか見えないのですが…。
ダーウィンはこの世界では『進化論』提唱してないのに急に「猿が人間に…」的なことしれっと言い出したり、アダムだのリリスだの死者の門が開くだのエヴァンゲリオンかよっていう世界観だったりするの、パスティーシュという形式に頼り過ぎてませんか?つまり「この人物だからこの思想だろう」「この展開はこういう意味だろう」というオタク読者のメタ知識ありきのストーリーで、もちろんそれ自体はパスティーシュの醍醐味かもしれませんが、ダーウィンの発言は矛盾だらけだしキリスト教世界観は納得できないしでスベってるとしか思えない。
しかも円城塔が書いたあとがきに
(伊藤計劃の)『屍者の帝国』は当初からエンターテイメント作品として構想されていた。狭義のSFでさえない。なんといってもこの小説の世界では、死人が直接的に立ち上がるのだから、科学的な厳密さはゾンビ物と並ぶ程度のものでしかない。ゾンビ物を、眉間に皺を寄せて観る人はあまりいないだろう。
と、設定が適当なことへのエクスキューズみたいな内容が書かれていてこれもまた激萎えた。そりゃ誰も科学的な厳密さなんて求めてないよ。でも作品中での整合性は求めてるでしょ。そうじゃなかったら何でもありでつまんないじゃん。科学なんてどうでもいいよね、エンタメだしね、てへ♡で済むんだったら何の脈絡も説明もなくワトソンが魔法を放ったりしてもいいってことになっちゃうじゃん。あと「屍者」の他に「ザ・ワン」「ハダリー」という屍者でも生者でもないイレギュラーな存在が2人も登場するせいでお前何なの?感は否めないし、それがありならどんなキャラ出したってよくね?ハリー・ポッターでも出して魔法無双すれば?ってなるし。伊藤計劃が書いたプロローグではワトソン(医学生)とヴァン・ヘルシング(精神科医、『ドラキュラ』に登場する吸血鬼ハンター)が登場して死者を「屍者」として蘇らせるシーンが描かれており、医学とイモータリティのインタラクションが描かれることによって生命とは何か…という話になるのではという期待感がありましたが、つまりは“科学的な厳密さ”は求めていないと言ってもせめて医者が主人公として不自然でないレベルの19世紀的生物学的知識、作品中での整合性、その世界線の中での物理法則はあってしかるべきじゃないのか?あるいは、“科学的な厳密さ”は必要ないと言うならはっきり言って菌がどうこうとかいうあたり全部要らないよ。マジでここに一番萎えたと言っても過言ではない。これは「眉間に皺寄せる」うんぬんではなく、世界観への没入の問題です。あまりにもちぐはぐすぎるとメタ思考に行ってしまってエンタメであれなんであれ小説世界に入り込めないもん。人間の意思の乗っ取りみたいな話は「パラサイト・イブ」とか「利己的遺伝子」とかあのあたりの時代に流行ったね…っていう印象しかないし、でもそういう生殖への希求みたいな話でもなんでもないし一体何が言いたかった?そいつらは人間に意思を持たせて、だから何?だってこの「菌株」は、(派閥がどうこう言ってますが)人間が生きてようが死んでようがどうでもいいわけですから生かしておく必要ないじゃない。むしろ「不死化」した方が永遠に生きられていいんじゃないの?要はエロスではなくタナトスへの希求という話ではないのか?まだ死者に名前があった時代、科学とオカルティズムのはざまの19世紀というスタートから考えると、20世紀的ディストピア、ナショナリズムという虐殺器官、科学の力による大量虐殺、“屍者の帝国”を予見させるラストにすべきだったのでは、と思います。