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現代短歌最前線-坂井修一 感想5

北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

坂井修一⑤

 

 学問について、「それが何の役に立つのか」という問いを嫌悪する一方で、特に実学に関してはやはり何かの役には立たなくてはいけない、手段でなくてはいけない、とも思います。以前にも書いたのですが、学問そのものを目的とするという行為は、いわば学問を個人の知的好奇心を満たす手段にしているにすぎないと思うからです。それを超えて、社会全体の利益とする手段とするからには、やっぱり学問にはそれを裏打ちするイデオロギーが必要だと思う。

 ただ、自分でもこれをどう考えればいいか分からないのですが、自分のイデオロギーに反するからといって技術や思想を封印することには実はあまり意味はなくて、なぜかというと歴史的にはブレイクスルーというものはしばしば同時多発的に生じるので、個人が封印しても必ず、同時にどこかでその技術や思想は完成されてくるんだと思うんですよね。せめて、皆が自分のイデオロギーに対して自覚的である必要があるのかなと…。

 

 社会全体の利益、ということを考えたとき、勿論金銭を無視することは現実的には不可能です。お金がないと勉強だって研究だってできないし、お金を生まない学問は継続が難しいでしょう。でも、金銭はやはり手段であって目的にはなりえない。金銭は何かと交換できることを前提として初めて価値を有するものであって、それ自体を目的とするのは無意味だからです。だから、やっぱり根底にあるのは哲学であるべきだと思うんです。ただ、社会全体の利益という視点において、誰かと誰かの道徳や正義、イデオロギーが対立したときどうなるのか、という問いには自分の答えが出せていないです。絶対的な正しさなんてないだろうし、あったとしても私の想像の範疇を超えています。

 

 この人のエッセイを読んで頭に浮かんだ3冊の本があります。1冊目はやはり、マイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』です。現代哲学最前線(笑)でこの人の著作を無視することは不可能なんじゃないかな。

 

 2冊目はマイケル・ルイスの『フラッシュ・ボーイズ』で、これは金融市場における超高速取引にまつわるノンフィクションです。金融市場では、いわば超高速のインサイダー取引とでも言うべきスカルピングが横行していて、一部の人がお金を儲けて社会全体の利益の利益を損なっているという現実があります。この「一部の人」というのはスカルピング行為が可能な技術者や投資家でもある一方、プログラムを組んだ数学者、物理学者も含まれます。これを読んでいて、相反する感情が生まれたことを覚えています。まず、やはり世界を制するのは数学なんだな、という単純な驚嘆です。その一方で、このような頭脳、能力が「金を儲ける」という一種卑近な「手段」に過ぎないことに浪費されているのは一体正しいことなんだろうかとも考えました。坂井修一の

 

大量虐殺せよせよと二十世紀ありフォン・ブラウンありわれら末裔

 

の歌もそうですが、超高速取引のプログラマーフォン・ブラウンは単純に「速いプログラムを書きたい」「宇宙に行くロケットを作りたい」という、ある意味純粋な、一方で「私利」ともいえる動機に従って行動し、結果的に社会の利益を損なったり大量虐殺に加担したりしている。これが科学の目指す未来だろうか。

 

 もう1冊の本は、ブレイディみかこの『僕はイエローでホワイトでちょっとブルー』です。これは日本人(イエロー)である著者とアイルランド人(ホワイト)の夫の間に生まれた息子のイギリスの公立高校での生活を描いたエッセイです。主にホワイトプア層が通う荒れた公立中学で差別や貧困といった問題と向き合いながらも子供らしい屈託のなさで生活する男の子の姿が描かれているのですが、これらの本を読んで、人間の幸福というのはどこにあるのだろうと考えました。

 

 今、科学技術の発展によってAIが進化し、テクノロジーについていけない人間は仕事がなくなる、と言われています。今までのように実直に努力していればある程度の見返りがあった時代とは違い、親が金持ちか、ユニークな能力がないと生き残れないと。そんなもの、どちらか片方でも持っている人間がどのくらいいるんだろう?

 『フラッシュ・ボーイズ』では、飛びぬけた能力を持つ人たちがある意味他人を「出し抜いて」お金を稼ぐ様子を読みました。一方、『僕はイエローでホワイトでちょっとブルー』では、イギリスの田舎のいわば底辺校、「親の金」も「ユニークな能力」も持っていない人たちの現状を読みました。どちらになりたいのか、と言われると、どっちも積極的になりたいとは思わないのですが、でもやっぱり、仮に選べたとしても、自分は前者にはなれないと思う。仮に能力があったとしても、後者のような人たちから搾取してお金を稼ぐことになんの意味や喜びがあるのか分からないもん。次の世代の人間を育てるときに、AIに勝つ特異能力を身につけるのはいいとしても、その結果として他人を出し抜いてお金を稼いで生きていけ、みたいな教育はしたくない。

 だけど、「人をだましてもお金を稼ぎたい」って思わなくても、「美しくて早いプログラムを書きたい」「宇宙に行けるロケットを作りたい」って思った時、極貧の中で一人でやってて叶うのかっていうと、現実的にはお金を無視することは難しい。こういう葛藤って、何が正義なのか、何が幸福なのかということを問いかけてくる気がする。「宇宙に命を懸けたい」って願って大量殺戮兵器を産むことが幸福と言えるのか。自分はそうはなれないとは思うんだけど、否定できるわけでもないんです。「自分がやらなくても他の誰かがやっていた」というのも現実だと思うし、私のような、現実にはそんな能力も情熱もない人間がそれを否定できるのかって言われると本当に分からない。

 

 このエッセイでは

 

科学技術は人を幸福にするか。私のようなものは、これにイエスと答えるために一生をかけなくてはならないのだと思う。それが父の言う「本分」だと。技術者が技術そのものをとらえ直すことなしに、それはできない。そして、社会とか生活とかいうものをいつも問い直すことなしには、新しい技術のパラダイムを生むことはできないのである。

 

とあります。坂井修一は情報学の東大教授です。私と違って、現実に、技術に対する能力や情熱を持っている人なんでしょう。だからこそ、「私のようなものは、これにイエスと答えるために一生をかけなくてはならない」と書いている。科学技術の到達点は何なのか?目指す幸福とは何なのか?もちろん、個人が恒久的に幸福でいることはあり得ないわけですが、「科学技術が人を幸福にする」ことを目指すなら、時代や社会、生活の変化に伴って、幸福そのものの概念を問い直す必要があると思うんです。そこにはやっぱり自己を支える哲学や信仰がないと。

 信仰というのは、ここでは宗教と同じ意味で用いているわけではありません。私は多くの日本人と同様、無宗教のような仏教のような神道のような曖昧な立場ですが、でも、信仰っていうのは何か神聖なものを信じて教えを乞うということだと思う。

 

 私は、苦しいとき、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』、大岡昇平の『野火』、遠藤周作の『沈黙』『海と毒薬』を読み返します。とくに『夜と霧』を読むと、このような魂があることで救われるといつも感じます。それは多分、「イエスを信じて祈れば天国の門が開かれる」とか「自分で自分を救うことのできない悪人は祈ることで救われる(親鸞の「悪人正機説」です)」という発想に近いのかな、と思っています。自分はそういう澄んだ魂にはなれなくても、その魂の輝きにすがって祈ることで、その信仰に支えられることで道を誤らないでいられると。

 好きな海外ドラマgleeで、ゲイの男の子のたった一人の家族であるお父さんが倒れて危篤状態になって、友達みんなが「あなたのパパのために祈る」って励まそうとした時、「教会はゲイを拒絶する、僕は神を信じない、祈りなんて必要ない」って言った彼に対して、クリスチャンの女の子が「キリスト教の神を信じなくてもいい。でも目には見えない神聖なものを信じることは大切だよ。それがあんたを救ってくれるの」って話してあげるエピソードがすごく好きで。宗教の神様じゃなくていい、目には見えない神聖なものが救ってくれるんだ、って、私もそう思うよ。

 

 坂井修一の言う「新しい技術のパラダイム」とはそういうことなんじゃないかな。だから、この人はこのエッセイの最後にこう書いています。

 

 父にとって「わけのわからない歌」は、私の中のどこかでは、新しいパラダイムのための捨て石のようなものにならないだろうか。それははかない妄想に終わるかもしれないが、今の私にできる一つの現実的な試みではないかとも思うのである。

 

 この人にとって歌は祈りであって、科学者としての道筋を照らしているんだと思います。そして誰にでもそういう芯は必要なんだと私は思います。

 

 

幸福の影を踏みつつ天上のイデアのために生くるにあらず (yuifall)

 

 

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