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現代短歌最前線-坂井修一 感想3

北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

坂井修一③

 

科学者も科学も人をほろぼさぬ十九世紀をわが嘲笑す

 

 この読みは私にはかなり難解なんですが、最初は何で十九世紀なんだろう?って思ってたんですよ。科学が人を滅ぼすとしたら二十世紀じゃないの、って。でも、十九世紀が「科学の世紀」と言われていて、学問としての科学が確立した世紀だからなのかな。

 前々回紹介した

 

滅びざる種はあらざれば人心は科学に劣ると思ひし部屋よ

 

をちょっと連想させる感じで、私が思うに、つまり、本当は、科学という学問は人を滅ぼすポテンシャルがあるのかなぁって。だけど、「人心は科学に劣る」にも関わらず、「科学者も科学も人をほろぼさぬ」から「嘲笑」するのかなって。「科学」、そして「マテリアリズム」は、どこかで「人心」「たましひ」と折り合いをつけていかなくちゃならないし、以前も書いたように、「人心」は「倫理」だけじゃなく、見たいものしか見ない、という意思でもあるから。だけど「学問」としての「科学」のポテンシャルは、それが何世紀の学問であっても、「人心」によって押さえつけられていることには変わりないだろうし、「人心は科学に劣る」と言いながら「人をほろぼさぬ十九世紀をわが嘲笑す」というのはどういうことなんだろうなー。

 でも、この歌は色んな読み方ができそうな気もします。「科学の世紀」として体系的な学問としての科学が整備されたにも関わらず、人をほろぼせないのなら、それまでの呪術的な(「錬金術」みたいな)技術とどれほど違うんだ、という意味合いでの嘲笑。あるいは、十九世紀は現代や二十世紀と比べたらある意味「倫理」との折り合いという意味合いではもっと自由だったはず。それなのに「人をほろぼさなかった」のは、単純に技術的にそのレベルまで達せなかったことへの「嘲笑」とも取れます。逆に、宗教的イデオロギーなどに押さえつけられて「人心」を上回れなかったことへの嘲笑なのかもしれない。もしくは、「科学の世紀」十九世紀を経て大量殺戮の二十世紀が到来し、人は十九世紀に滅びておくべきだった、ということなのかも。二十一世紀はこの流れで行くと人工知能の世紀なのかな?

 

 ちなみに『短歌タイムカプセル』の解説では

 

現代に比べると、十九世紀の研究は、人類を滅ぼすような大規模なものではなかった。そのことを「嘲笑」しながら、歌人は、科学が今後も人類の幸福に寄り添い続けることを祈っているのだ。

 

 『現代短歌最前線』の解説には

 

 <科学者も科学も人をほろぼすことのなかった>十九世紀を称えるのかと思ったらさにあらず、<十九世紀の科学と科学者を嘲笑する>と。逆説表現なのであろうか。わたしには分かりにくい歌である。

 十九世紀の歌を受けて、では、進歩の著しかった二十世紀をこの科学者は賛美するのであろうか?

 

とあります。まあー、以前にも書いたような『世にも奇妙な人体実験の歴史』(トレヴァー・ノートン)とか『世にも危険な医療の世界史』(リディア・ケイン、ネイト・ピーダーセン)とか読んでると笑えるのでそれを「嘲笑」と呼んでもいいのかもしれませんが、しかしながら現代の科学も未来からしてみれば多分笑えるレベルであろうと思いますし、そんな単純なことを言っているわけではないような気がします(笑)。

 

大量虐殺せよせよと二十世紀ありフォン・ブラウンありわれら末裔

 

優生学(ユーゼニクス)的愛恋といふ造語笑ひつつすぐす夜もゆるすべし

 

 このあたり読むとどうしても笠井潔の『哲学者の密室』連想するな…。大量殺戮による死vs特権的な死の哲学についてを巡るミステリーなのですが、作中では「ハルバッハ」という名前で登場するけどハイデガーのことで、ハイデガーの『存在と時間』に対する議論が展開されています。以下引用ですが、

 

 ハルバッハは瞬間的な、点のような死を想定した。死とは、一種のターニング・ポイントなんです。死の可能性に先駆し、将来の死をターニング・ポイントとして現在にたち戻る。それが人間に本来的な生き方を可能にさせる。けれども死が、もしも瞬間的なものでないのだとしたら、ターニング・ポイントのポイント性が失われてしまう。死は本来的自己を可能とするだろう、特製の折り返し点ではなくなる。人間が、死の可能性に先駆しようとしても、その死は、はじまりも終わりもない不気味な過程なのだから、それから折り返して現在に立ちもどることなど不可能だ。泥沼のように輪郭のない、おぞましい、はじめも終わりもない死に足をとられて、先駆する意思は無様に横倒しになる。そして沼地の底に、ずるずると呑み込まれてしまう。実存的な本来性は宙に浮き、ハルバッハ哲学は土台から崩壊せざるをえない。

 

 (めっちゃ中略)

 

 第一次大戦は人類の歴史はじめての、未曽有の殺戮戦争だった。産業廃棄物さながらの無名の死者の山は、第一次大戦の過酷な塹壕戦において、もう経験されていたんだ。その結果として、ワイマール時代の空疎な繁栄の時代が生じた。ハルバッハが嫌悪した大量消費社会さ。だがワイマール時代の無意味な生は、第一次大戦の無意味な死の陰画でしかない。それは現代の病院における生死と、克明に対応したものだね。病院では、さしあたり凡庸な生が強制される。名前のない生だ。誰にも平等に同じ治療がなされる時、そのようにして保証された患者の生は、既に固有の人格を奪われている。治療の甲斐なしに患者が死ぬ。その死もまた同じことだろう。

 ハルバッハは、ワイマール時代の大衆社会を嫌悪したのではない。むしろ、それを恐怖したんだ。嫌悪にはまだ、心理的な余裕のようなものがある。恐怖する人間には、そんなゆとりがない。なぜなら、ラジオや週刊誌や映画のディートリッヒの半裸体に陶然としている大衆、生きながら死んでいるような大衆は、それ自体として無意味な大量死の裏返しなんだから。第一次世界大戦の死者は死にながら生きている。そしてワイマール時代の生者は、生きながら死んでいた。その圧倒的な恐怖から、むしろ魂を脅かす戦慄的な不気味さから逃れようとして、ハルバッハの死の哲学が紡ぎだされた。本来的実存を覚醒させる特権的な死とは、二十世紀的に無意味な生と死の必然性を隠蔽しなければならぬ、そうしなければ人間は泥人形にまで転落してしまうという、哲学者の悲鳴の産物なんだ。

 第一次大戦の大量殺戮を隠蔽しようとして、ハルバッハの死の哲学が生じた。そしてそれが、逆説的にも第二次大戦の大量死の哲学として機能してしまう。おのれが生み出した物体の山も同然である膨大な死の堆積に直面して、ハルバッハ哲学は最終的に空中分解を遂げた。第一次大戦の経験がもたらした死の無意味性から、なんとか意味ある死を救出しようとして、ハルバッハは死の哲学を考案した。それなのに彼の哲学は、さらに大量の無意味な死に帰結したんだ。

 

 引用終わり。

 

 「科学者も科学も人をほろぼさぬ十九世紀」から、二十世紀になって大量殺戮の時代が到来しました。「匿名の死」という現象は、分からないではないです。『桜前線開架宣言』で取り上げられていた若手歌人たちの多くが、ちょっと離人的というか、自分の人生とすら距離がある感じ、自分は名もない生を生きて匿名で死ぬ、という思想が根底に流れているのを感じる歌を詠んでいました。だけど誰もessentiallyにだけ生きることはできないように、本来的な生を生きられない人も実際にはいないんじゃないかなという気もしてます。

 まー、私は実際には『存在と時間』を読んだことはないので(笑)、ハイデガー哲学についてここで論じるつもりではないです。。ただ、人の生死を「匿名」と考えるか「特権」と考えるかはいわばマクロ的に見るかミクロ的に見るかの違いに過ぎず、大量殺戮や「マス」といった概念の確立によってマクロ的な見方が可視化され、現象として表出したに過ぎないのではないかと思っています。

 

 フォン・ブラウンはロケットを作ることに命を懸けて、そのために「悪魔に魂を売り渡した」と言われた科学者です。宇宙ロケット開発は同時にミサイル開発にもなったから。人をほろぼすのは「科学」や「科学者」ではないのかもしれない。「大量虐殺せよ」というのはフォン・ブラウンではないよね、多分。でも、じゃあ科学者は開発した技術に責任がないのか、という倫理的な問題になると、やっぱり、ないとは言えないのではないだろうか。おそらく最先端の研究者の中には、倫理を突き抜けて学問を追及したいと願う究極的な瞬間を体験したことがある人もいるのではないかなと思ったりもします。単純で純粋なまじりけのない学問として。だけど、「純粋に学問を追求する」というのは言い換えると「学問を自分の知的好奇心を満たす手段とする」という非常に卑近な動機に過ぎないし、数学や文学、哲学(も、人を殺せますが)と違って科学のほとんどの分野はいわゆる「実学」だから、やっぱり「手段」とせざるを得ない面はあるのかなって。現実的にはどこから何の目的で金が出てるのかって問題もあるし。そこで「人心」との折り合いというか、科学は何のためにあるのか、という個人のイデオロギーが立ちはだかるのかなと思っています。自分を支える哲学がないといけないって。

 ある研究者の講演を聞いていて、「この分野の研究で予算を出してもらえるのは国内では防衛省だけだが、そこからお金をもらって研究するのは色んな制約がある」というような話をしていて、まあその研究の成果が実際に防衛省でどう利用されるのかということはともかく、どこからお金が出て研究成果をどう使われるのか、ということに自覚的であることはいち研究者として可能なわけなので。

 

 だから、この人が科学者でありながら歌人でもあるのって、そういう折り合いのつけ方なのかなって。「科学は人を幸福にするか」という命題に対する一つの向き合い方なのかなって思ってます。科学、宗教(自分なりの神聖な何かに対する信仰)、哲学は複雑に折り重なって人間の根幹をなしているのではないかと考えています。

 

 

学問をtool(道具)と見做す寂しさを思へどmethod(手段)であれと願へり (yuifall)

実学はシビアであればプライドと誇りの差分を測りてをりぬ (yuifall)

 

 

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