「一首鑑賞」の注意書きです。
300.みんな仕返しが大好き極月の戯(そばえ)きらきらこうずけのすけ
(佐藤弓生)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで江戸雪が紹介していました。
ちょっと前に半藤一利の本にハマって色々読んでいたのですが、その中で「忠臣蔵の復讐譚には実は道理がなかった」というものを読んで面白かったです。その当時、復讐をしてもいい人は誰なのか決まっていたらしい。「徳川成憲百箇条」に定められていたとか。
半藤一利の『ぶらり日本史散策』(文藝春秋)から以下引用です。
要は、殺された者の子葉すなわち親の敵を子が、兄姉の敵を弟妹が討つ。これはOK、なれど親が子の敵を討ったり、兄が弟の敵を討ったりすることには許可は下りない。伯叔父の敵を甥が討つことも駄目。逆縁の敵討ちが許されるのは、最適格な肉親がいないときにかぎられた。
ましてや、たしかな親族がいるのに、それになり代わって家来や門弟や友人が、仇討ちをするなんてことは許されるわけがなかった。それが常道である。せいぜいその助太刀が許されるだけである。
となると、赤穂浪士の吉良邸討ち入りはすこぶるおかしなことになる。浅野長矩の恨みを晴らしたいのであれば、長矩に子がないから、弟の浅野大学がやらなければならない。『礼記』も「長曾我部式目」も、家康の「百箇条」だって、君臣の義の敵討ちを認めてはいない。大石内蔵助たち家来が代わって敵討ちなんてルール違反もいいところである。
(中略)
松の廊下の刃傷も、赤穂浪士の吉良邸討ち入りも、ともに私闘であると論じ、人情論を断固として排した萩生徂徠の言い分はまことに正当であったのである。
「武士道というのは、おおかた戦国の風俗なり。馬上にて天下を得るとも、馬上にて治むべからず」
驚くなかれ、軍人は政治に干与してはならぬ、とすでに喝破しているのである。
私闘であり評価に値しないと。しかし現実問題復讐に道理も何もないわけで、これは私闘であり道理がないことはそもそも皆分かっていたのではないか?と『菊と刀』(ルース・ベネディクト)読んで思ったりもしました。まあ私は全然『忠臣蔵』に思い入れがないのでふーんそうなんだー、って思ったくらいでしたが…。
何にせよ、法治国家において私刑は許されないという思いと、自分だったら…という思いは誰にでもありますよね。超法規的に因果応報が巡ってこないかなって。「みんな仕返しが大好き」な側面があることは否定できないのかもしれない。
それにしてもですけど、自分の世代ですら『忠臣蔵』というものへの拘りというか感慨はほとんどなく、ましてや下の世代をや、って感じです。今の10代20代で知ってる人どのくらいいるのだろう?冬の風物詩だと思っている人は?「仕返しが大好き」かどうかはともかく、徐々に『忠臣蔵』に対する共感度みたいなものは下がってくるのかもしれない。
最後の「きらきらこうずけのすけ」ちょっと笑ってしまいました。
分かってる きみは罰など受けないし それはおそらく私も同じ (yuifall)