山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
紺野万里
解説の冒頭に、
短歌の主題は原発である。被爆した父親を持つ被爆二世でありながら「原発銀座」である福井県で暮らしているというジレンマが作品の根本を形作っている。
とあります。「原発」について、調べてみると、(この人の記事の歌のように、震災以前のものも含めて)色々な歌が詠まれているようです。有名なのは塚本邦雄の
さみだれにみだるるみどり原子力発電所は首都の中心に置け (塚本邦雄)
かと思うのですが、これは電力を使うならそこに原発を置け、という主張なのかな。原発そのものの是非には触れてませんが、地方に原発の責任を背負わせつつ安全な電力を金で買う、ということに対する批判的な目線が感じられる歌です。
原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で弁護してみた (岡井隆)
と震災後に詠んでいます。やっぱり、原発による電力なしの生活には戻れない、という現実的な目線なのかもしれません。原発の安全性を守れなかったことそのものが問題なのではないか、という意味でしょうか。
また、俵万智が震災後に仙台?から沖縄に移り住んだということと
子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え (俵万智)
という歌は知っていたのですが、
まだ恋も知らぬわが子と思うとき「直ちには」とは意味なき言葉 (俵万智)
は初めて知りました。これ、復興ソングの『花は咲く』を意識した歌なんでしょうか。「いつか恋するきみのために」って歌詞。確かに震災後、「直ちに影響はない」って連発されていたことを思い出します。「直ちに」の無責任さが批判されるのをやむなしと思う一方で、じゃあ誰が長期的なことを分かるのか、そして長期的に問題があると知ったら「直ちに」受け入れられるのか、とも思います。
自分はどういうスタンスなのかと考えた時、倫理的な観点も含めて、原発は安全性まで全てをコストに入れると実はあまりパフォーマンスのよくない発電法なのかなという気がしないでもなく、やっぱり脱原発に行かざるを得ないのではと思う反面、具体的なヴィジョンは全くないし節電に努めてるかといえば微妙なところですし、原発の近くに住んでるわけでもないし、自分に一体何が語れるのだろうと思います。まあ、アスベストや煙草が排除されてきているように、仮に原発を止めて不便を強いられたとしてもいずれ慣れるのでは、と思ったりもする。でも、じゃあ火力発電とかでがんがんCO2出すのはいいのか、とか色んな問題もあるし…。考えがまとまっていないです。
実際に福井の地に住んでいるこの人の思いも複雑なものであるようで、解説には
原発に対する複雑な感情が執拗に描かれ続ける。それははっきりと告発なのであるが、しかし苦悩の果てに口をついたようなくぐもった様子もぬぐい切れずにいる。外から原発を批判することはたやすいが、リスクと恩恵を同時に引き受けて福井の地に住んでいるという思いそのものが、紺野にとって限りなく罪の意識へと近づいているのだろう。(中略)つまるところ紺野が主題にしているのは決して原発批判ではない。父の被爆と福井に住む自分という対立のなかで引き裂かれていく自己の意識である。
とあります。
わたくしが死ぬまで運ぶ卵たちよすこし光がとどいてゐますか
この「光」っていうのは「ヒロシマのピカ」みたいな意味合いでの光なんだろうか、それとも明るさの意味での「光」なんだろうか。生殖器系は放射線の影響を受けやすいですからね…。
それにしても、今回これをきっかけに「原発詠」を色々読んでみて思ったのは、人の気持ちのままらならさというか…、いわゆる「風評被害」的なところが本当にしんどいなと思いました。原発事故後、福島出身者や福島、東北の農産物が嫌われたこと、「セシウムさん」みたいな言葉が流行ったこと、今コロナウイルス感染症関連で感染した人たちが批判されていること(*感染拡大初期に書いた記事です)、そしていずれも、風評被害にあった人たちや批判された人たちが命を断つまでのことが起きていて、本当に、守らなきゃいけないものって何なんだろうと思いました。原発の安全性も、コロナウイルスの封じ込めも、人命を助けることを目的としているはずなのに、そうやって人の命を奪っていくこと、それが本当にやりきれないです。
さくらばな下照る小径はなびらを浴びてたまゆらヒト紀といふを
ヒト紀、はいつまで続くんでしょうね。
「直ちに」の死を避けんとしリモコンで制御不能な野卑の火灯す (yuifall)