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小林恭二 『短歌パラダイス』感想 1-8「ねたまし」

『短歌パラダイス』感想の注意書きおよび歌合一日目、二日目のルールはこちらです。

yuifall.hatenablog.com

 8番目は「ねたまし」です。

 

「妻」という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの (俵万智) 

傾けむ国ある人ぞ妬ましく姫帝によ柑子差し上ぐ (紀野恵)

 

 俵の歌は、読みは難しくないです。不倫をしていて、「妻」という立場を妬んでいる。「墓参」という言葉から連想される夫婦はおそらく中年以上で、愛人という立場から見ると、「墓参」に付き添う、つまり男の「家」に連なる、という立場が「安易」であると言っている。なぜ「安易」なのかというと、それはまあ陳腐な言い方になりますが紙切れ一枚に保障された「立場」であって、ここにははっきりと描かれていませんが、愛で結びついた関係ではないから(少なくとも作中人物はそう思っていないから)、なのかな。しかしそれが「ねたましい」というのは、つまり自分こそがその立場に相応しいと思っているわけでもあり、やはり紙切れ一枚の威力は侮れないということでしょうか。

 

味方チームは

・妻でない人が妻に歌う熾烈な歌の中で、墓参りの光景を持ってきたのは非常に新鮮ではっとさせるものがある(小池)

・圧倒された。現実的で卑近なことだからこそ「ねたまし」が生きている。「妻」の鍵括弧には、「安易ねたまし」へのためらいが表れているのではないか(荻原)

・「墓参」がミソである。家族制度といったものに安易にくるまれている妻という存在がふっと妬ましくなる瞬間がある、自分の中の葛藤や弱さがよく引き出されている(田中)

 

敵チームは

・「妻」と「ねたまし」の組み合わせは歌謡曲の世界。取り柄と言えば妻がねたましいと言っているのではなく、「「妻」という安易」がねたましい、と言っているところか(永田)

 

と言っています。

 

 

 紀野の歌は、権力への「妬まし」なのかな、と思って読みました。姫帝は「傾ける国」を持っていて、それに対して「妬ましい」というのは、作中人物はそれに取って代わることのできたかもしれない立場にいるんだと思います(あまりにも遠い存在だったら「妬ましく」はならないはず)。

 これはどういう意味での「姫帝」なんだろうな。男性の「帝」であったならあまり何も考えず、作中人物は弟とか従弟とか腹違いの兄弟なのかなって思うんですが(男から男への嫉妬、に限定されそうですが)、「姫帝」の場合、解釈は2通りに分かれそうです。

 一つは、「姫帝」が本当に権力をふるっている「帝」である場合。エリザベス女王とか、マリア・テレジアとかエカテリーナ二世みたいな感じ。この場合、妬んでいる作中人物は権力を奪いたい臣下である、と解釈されます。

 もう一つの解釈は、帝(男性)の寵姫としての「姫帝」です。彼女は傾国の美女で、いまや政治の実権は彼女が握っている。その美しさと狡猾さを妬んでいる。その場合、臣下とか、やっぱり愛人とか、そういうことなのかも。どちらにせよ姫帝に「柑子」を献上して仕える立場なわけで、しかもどちらの場合でも、作中人物は男性とも女性とも取れます。

 

味方チームは

・この人は臣下で、世が世なら自分も国を傾けるような后のひとりであったものを、と嘆いている。何とも言えない皮肉な悲しみを詠んだ歌(水原)

・自分が姫帝そのものになりたいという気持ちではないか(永田)

・自分は男性で、この国が欲しいという欲望ともとれる(井辻)

・「姫帝」や「柑子」とかそういう細かい措辞の選択に込められた感情を、もっと読み取ろうとすべき(岡井)

 

敵チームは

・紀野恵という名前がスケール感を大きく感じさせるにすぎない。面白おかしく感じる(荻原)

・「傾国の美女」という表現をひねろうとしているが、そのためにぐじゃらもじゃらになっている(小池)

・(「妬まし」というより「悔しい」が近いのではないか、という小林の発言に対して)私もそう思う(道浦)

 

と言っています。

 

 

 どちらを選ぶかと言われるとすごく悩むんですが、個人的には俵万智のこの歌をどうしても好きになれません。「安易」が嫌なんだと思う。

 作中の主人公(愛人)が1962年生まれの俵万智と同年代だとすると、年齢的には50年代生まれくらいの「妻」が想定されますが、その時代の女性が結婚に際して選択できることってあまりなかったんじゃないだろうか。20代半ばで仕事を辞めて、夫の苗字になって嫁に入って、下手したら親と同居で、もしかしたら介護とかもしてたかも。育児だって当然ワンオペだっただろうし、夫の世話もしていただろう。人生の全てをその生活に捧げるしかなかったはずです。それで、仮にそこに溢れるような愛情がなかったとして、その立場が「安易」だろうか。むしろ、家庭で衣食住の世話をされた男の上澄みだけを楽しんでそれを愛と言い張る愛人の方がよっぽど「安易」じゃないだろうか。

 「墓参」に連れ添っているんだから、破綻した関係の夫婦ではないはずです。こういう男の何を見たら、「妻」との関係は「安易」で自分こそがその立場に相応しい(ねたましい)と思えるわけ?一緒に「墓参」に連れ添いたい、という言いぐさも見え透いて感じるし、個人的にはこの歌が生理的に受け入れられない。不倫の歌が全て無理ってわけじゃないのですが、どうしても、この歌の陰に「妻」の人生の重さを見てしまって…。ていうか一番嫌いなのは愛人じゃなくて相手の男なんですけど(笑)。

 

 なので、どっちかを選ぶなら紀野恵の歌を選びます。私にとっては解釈の難しい歌ではありましたが、「ねたまし」というテーマで自分では絶対に出てこないスケールで驚いたし、この回の議論を読んでいても色々な解釈があって楽しかったです。「帝」ではなく「姫帝」としたために解釈の幅が広がったと思うし、岡井隆の言うように、「柑子」という言葉からももっと色々なことが読み取れるのではないかと思いました。

 

 

妬ましや 誰も(たれも)石もて殺むべし孕まば君が血を受く児まで (yuifall)