いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌と洋楽和訳メインのブログで、海外ドラマ感想もあります

現代歌人ファイル その102-成田れん子 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

成田れん子 

bokutachi.hatenadiary.jp

月光の器の中に月光を啜りてやがて凍化する魚

 

 この人は1927年生まれで、33歳の若さで亡くなっているそうです。解説には「2010年に檜葉奈穂が「歌人探究 成田れん子論」という評伝を出して再び掘り起こされた格好である」とあり、この評伝には、この人が病身であったこと、それに出産で亡くなったことが書かれているそうです。この歌のようなファンタジックな世界観は、死と隣り合わせの生活から生まれたのでしょうか。

 

 出産で亡くなる、というと、どうしても吉野弘散文詩『I was born』を連想します。長さのある詩なので全文引用はしませんが(ググればすぐに出てきます)、前提として、出産で母を失った息子が父と「生まれる」ことについて話す、という内容です。単に英文法上の問題として「I was born」を受動態=生まれさせられる、と捉える息子が父に思いがけず蜻蛉の雌の話をされるという内容の詩なのですが、結びの

 

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。

――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――

 

このフレーズが強烈に印象に残っています。

 

 この詩の中で、息子(僕)は妊婦さんを見て、「I was born」は受動態である、人間は生まれるのではなく生まれさせられる、という発言をしていて、これは想像ですが、母親が子供を産む=出産の主体は母親である、と考えたんじゃないかな。で、父親は、卵がみっしり詰まった蜻蛉の話をするんだけど、それは、産む、の主体は親ではない、ということを言いたいのではないかと感じました。

 「生まれる」が「I was born」と受動態である、という文法上の問題について、「born」の主体が「I」でないのは当然生まれるのは自由意志ではないのだからそうなんだろうけど、その主体は多分親でもないんだと思います。出産は「delivery」(届ける)だし、母親は子供を運んでくるだけなんだよ。その主体はもっと大いなるものというか、この詩にある、「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみ」そのものなんだと思います。

 

 この人の

 

きみがいのちをののきて受くる日もあれや月晶此処に満ちてふりつつ

 

こういう歌を読んで、病身でありながらする恋と命を懸けた出産、ということを考えました。

 

ほろほろと死も夕映えの花ならむ逢ひの極みに臥して恋ふれば

 

こんな歌もあります。

 

 妊婦さんがいて、母体と胎児が両方危険にさらされているとき、母体を優先するのが周産期医療の常識ですけど、それはもちろん倫理的な問題が第一ですが、生物学的に、母親が生きていればまた産める、という観点もあると思うんです。でも、こういう、どうしても出産に命を懸けずにはいられない場合(命懸けでなければ産むことができない場合)は非常に苦しい選択になりますよね。一生子供を持たない人生を選ぶのか、可能性に賭けて出産を選ぶのか…。私なら産むか産まないか多分その状況にならなければ分からないけど、自分が男なら配偶者に産んでほしくないと思ってしまうだろうな。でも同じように考える人ばかりじゃないのは分かっています。少しでも可能性があるなら、命を次に伝えたい、産んで(いずれ)死ぬことこそが自然の摂理だと、そういう考えもあると思う。

 

 こうやって歌が残っていること、こうしてこの人の思いに触れられること、それを愛おしく思うしかないのかもしれません。

 

 

母体とは先に死にゆくものなりてdecidua(脱落膜)と名付けられしか (yuifall)