山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
山崎郁子
おそらくは口にだせずにゐたゆゑにぼくらの波は高かつたのだ
この人の歌どこかで見たことあるなーって思ってたら、『ぼくの短歌ノート』(穂村弘)の「ちやらちやらてふてふ」の項目で紹介されてた旧仮名の
ひなにんぎやうのかたなのつばやすらかな眠りにおちるためのおまぢなひ
の人ですね。
旧仮名のひらがな表記の魅力をフルに用いており、スタイリッシュでおしゃれなイメージがある。言葉に対するフェティシズムがこの文体を選ばせているのだろう。
と解説にあります。
きんのひかりの化身のごとき卵焼き巻き了へて王女さまの休日
解説に「「満ち足りる」という感覚が正面から描かれているのは今見ると新鮮な思いもする」とあります。おそらく、多くの創作の原点が「満ち足りない」というところにあるのではないかと想像されますが、そこで「満ち足りる」という感覚を正面から描くのは素敵だなって思います。
解説の「今見ると」というのはおそらく「バブル期の昂揚感」という世代的なものに重ね合わせてあって、確かに『桜前線開架宣言』で紹介されていたborn after 1970の歌人にはあんまりこういう感じの歌はなかったようにも思われますが、どうなんでしょうね。世代なのか、個人の問題なのか。
いつも「満ち足りる」歌というと、俵万智が『あなたと読む恋の歌百首』で紹介していた
全存在として抱かれいたるあかときのわれを天上の花と思わむ (道浦母都子)
を思い出すのですが、道浦母都子は1947年生まれで、山崎郁子とはおよそ20年の年の差があります。まあ、いずれも、日本の将来がこれから上向くと信じられていた時代に青春を送ったといえばそうなのかもしれませんが…。「満ち足りた」歌、いいなぁって思うんですが、共感を生む作り方は難しそうです。
この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば (藤原道長)
なんて、(実際の歌の本意はどうあれ)共感するのはちょっと難しそうですしね…。
遮断機が下りきるまでの青空のあを いつまでの約束のいろ
最後は「青」をテーマにした歌が多数紹介されています。「青」は「約束のいろ」なんだね。ここから「青春」のイメージを読み取るのはちょっと想像力が貧困にすぎるでしょうか(笑)。「遮断機が下りきるまで」なんだからやっぱりいつかは終わる青なんだと思いました。
あをぞらの向かうへつづく階段を見つけられずにゐるのを見てゐた
というような歌もあり、青春の向こうに待っているものが見えない、っていう感じもして、当時の感覚が分からないのですが、今満たされていながらもこれは永遠に続く青春じゃない、っていう焦燥もあったのかもしれないなと思いました。
どこまでもすみれ色なる波を きみ 連れて帰つてしまつた目だね (yuifall)