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「一首鑑賞」-95

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

95.それは私が夜中に見てゐたドラマだと娘が言ひぬ夢を語れば

 (花山多佳子)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」で生沼義朗が紹介していた歌です。

sunagoya.com

 この歌は、もちろん歌そのものも好きで鑑賞ページを読んだのですが、鑑賞文もすごく面白かったです。

 歌の内容は難しくはなくて、おそらくこの人はリビングに隣接した和室とかで寝ていて、睡眠のサイクルで眠りが浅くなっている時間帯に隣のリビングで娘がTVドラマを見ていたんでしょう。で、内容が夢の中に入り込んできて、翌日「こんな夢見たわ」って話したら娘が「それ、あたしが昨日見てたドラマだよ」って。無意識に入り込んでたんだね、って。そこで「なんだ!あはは」ってなるか、「うわ、怖っ」ってなるかは性格やドラマの内容によるかもしれませんが、どちらにせよ親子の会話が面白いです。

 

 鑑賞文も、冒頭から面白かったです。

 

きわめて個人的な話だが、日々のクオリアの執筆に困ったときに頼りにしているのが花山多佳子と小池光の歌である。理由は、一首一首の歌が物語を含んでいて何読にも耐え得る強度を持っているからだ。取り上げたい歌が多かったため今まで機会がなかったが、掲載回数が残り4分の1を切ったこともあり、いよいよ(自分にとっての)真打ち登場である。

 

 花山多佳子の歌には全く詳しくないので申し訳ないのですが、娘や息子を詠った歌が多い人だという印象があります。あと、これは完全なる印象ですけど(しかも少ないサンプル数から来る印象なので誤っている可能性も十分ありますが)、ぱっと見すごく真剣な言葉なんだけど読むと面白いっていうか、ちょっとコミカルなイメージもあります。

 鑑賞文では

 

掲出歌は「娘」の淡々とした口調が一首の空気の醸成に大きく資しているのは疑いなく、それは花山の他の歌にも共通する。重要なのはその人物像が一貫していてブレがないことだ。断っておくが、この「娘」のキャラクターを実際に知っているかはまったく関係ない(実際の花山の娘さんと結びつけて歌を観賞してしまう人が出てくるところが短歌の厄介な点である)。作品から感受される「娘」の人物像が、読者のなかできちんと像を結ぶか否かが肝要なのである。

 

と書いています。確かに花山多佳子の娘は花山周子なので短歌界では有名人ですが、実際の周子さんと花山多佳子の詠う「娘」像が微妙に異なっているのは当然のことで、鑑賞にあたって本人のキャラクターを知っているか否かには全然関係はないんでしょう。

 しかし一方で

 

掲出歌は「娘」の淡々とした口調が一首の空気の醸成に大きく資しているのは疑いなく、それは花山の他の歌にも共通する。重要なのはその人物像が一貫していてブレがないことだ。作品から感受される「娘」の人物像が、読者のなかできちんと像を結ぶか否かが肝要なのである。

 

という記載からは、「一首」の中ではなくて「一連の」あるいは「全ての歌を通して」一貫してブレのない人物像を描くことが、「読者のなかできちんと像を結ぶ」かどうかに肝要である、と読めます。

 

 こういうのほんと、いつも、うーん、って思う。なんで歌人でいることは自分の人生と切り離せないんだろう。確かにこの「娘」は淡々とした語り口調で、他の作品の「娘」像とブレがないのだろう。そして確かに、一人の歌人が、ある作品では淡々とした「娘」を描き、別の作品ではギャルの「娘」で、別の作品ではテンション高いオタクの「娘」だったらちょっと戸惑うかもしれません。しかし一方で、淡々としているのは「娘」ではなくてこの人の作風なのでは、という思いもあります。ギャルでもオタクでも、きっと淡々と描写してくれるのではないかという気がするんです。この歌は一首だけで十分、娘の人物像がきちんと像を結んでいるし、この一首だけ読んでもそれはよく分かります。では、もしも違う歌で違う「娘」像が登場したら、その一首ではその「娘」の人物像が描かれていたとしても、これらの歌の価値はなくなってしまうのだろうか?

 「娘」のキャラにブレがないのは、それは実際の「娘」を題材にしているからという読みになってしまいますよね、結局。それはやむを得ないのでは?だけど、自分の人生の事実をブレなく詠う人だけが歌人だろうか。

 

 鑑賞文には

 

少し話は変わるが、10年から20年くらい前だったか、若い作者の相聞歌において「相手の顔が見えてこない」といった批判がしばしばなされたことがあった。指摘自体は妥当なものだと思う。相聞歌という性格上、どうしても作者の感情に表現の比重が寄りがちだからだ。相手および自分という人物がもっと描けていれば、この種の批判は起こらない。とはいえ、一首の短歌で特に他者の人物像を表現するのは簡単ではない。批判自体に反論するものではないが、若いあるいは新人の作者に求めるのは少々厳しい気もする。

 

ともありました。ここには、「一首の短歌で」と書かれています。つまり、「一首」の中に他者の人物像を描写するわけです。

 

飴玉の包み紙をすてるまえに折りたたむひと そのくせつめたい (北川草子)

「一首鑑賞」-その64 - いろいろ感想を書いてみるブログ

 

 とっさにこの歌を連想しましたが、この相聞歌では一首の中に他者の人物像が鮮やかに描かれています。もし北川草子が別の歌で優しい男性を詠っていたとして、この歌の価値は損なわれないのではないかと私は思う。まあ、全く同じ連作内にあったら、どっちやねん。何人男がいるねん。って思うかもしれんけど。。

 最後に

 

人物が動くことで、事柄が生まれる。作者の感情に表現の比重が傾くと、作品のなかで事柄が人間を動かしてしまう現象が往々にして起きる。そうではない。冒頭で花山多佳子や小池光の歌には一首一首に物語が含まれていると書いたが、人物を歌のなかできちんと描けばあとは自然に事柄が生じてくる。そのことを知悉しているからこその人物描写であり、人物造形なのである。

 

と書かれています。

 これは身に染みる言葉ですね…。前に取り上げた「個人的な思い入れ部分」じゃないけど(「一首鑑賞」-94 - いろいろ感想を書いてみるブログ)個人的な思い入れで書いちゃうとキャラ立ちしないんですよね。自分の中にない人物像が出てこないから。人を見てディテールを描く、という訓練が自分にも必要だなと心底思いましたがいつも思っていても頭で考えているだけではうまくいかないものです。

 

 

熱心に語るあらすじ聞くときに僕が持たない言葉を撫でる (yuifall)

 

 

短歌タイムカプセル-花山多佳子 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ