「一首鑑賞」の注意書きです。
142.風。そしてあなたがねむる数万の夜へわたしはシーツをかける
(笹井宏之)
笹井宏之の歌はすごく好きで歌集も持っていて、この歌も知っていたはずなのですが、今回砂子屋書房「一首鑑賞」で黒瀬珂瀾が取り上げていたので特に目に留まりました。
自分では読み切れなかったり読み飛ばしてしまったりする歌でも、誰かが丁寧に読んでくれることによって改めて良さに気付けることがあります。鑑賞文を読んでいて、ありがたいなあと思います。
この歌を読んで、なんか光景が目に浮かびました。夜、風が吹いてきて、そこで目を閉じるんです。で、風が街を吹き抜けながら、みんなのベッドにシーツをかけているところを想像するの。もう壁とか屋根とかそういうのは考えなくてよくて、かけるのは掛け布団か毛布だろうとかも考えなくてよくて、清潔なシーツを運ぶんです。安らかな眠りを届けるために。「あなた」は特定の誰かではなくて、無数の「あなた」だと思う。英語だったら単数形でも複数形でもyouだから、youです。一夜ではなくて、未来永劫、世界中の夜へシーツをかける。
この歌、「わたし」=「風」と考えた方がおさまりがいいというか「わたしは風になってあなたがねむる数万の夜へシーツをかける」と考えた方が読みやすいのですが、笹井宏之の他の歌を読んでいて、もし「わたし」=「風」だったらそう書くんじゃないのかなぁ、って気もして、分かりません。
五月某日、ト音記号のなりをしてあなたにほどかれにゆきました
いたずらにすがたかたちを変えてゆく水のひとつが私である、と
運河へとわたしのえびが脱皮する いろんなひとを傷つけました
もうそろそろ私が屋根であることに気づいて傘をたたんでほしい
他にも色々ありますけど、だからこそ、「わたしは風である」と断定していないこの歌は、「わたしが風になって吹き抜けてあなたの夜へシーツをかける」と読むよりも、あくまで「シーツをかけるのはわたしである」と読んだ方がいいのかなあ、って。だから「わたし」は生身の人間ではなくて、でも風でもなくて、風にのって数万の夜へシーツをかけにいくのかな、と思いました。
鑑賞文には
「わたし」は一人でありつつ、あらゆる世界に遍在するものとして、数万の命それぞれの夜に、いっせいにシーツをかけるのだ。そのとき、初句の「風。」はまたあらたなきらめきを放つ。無限のあなたに無限のわたしがシーツをかけるとき、「風」はあらゆる世界をいっせいに吹き抜ける存在となる。つまり、「風」と「わたし」の優しさが同時に、この世界にあまねく降りかかるのだ。
とあります。笹井宏之の歌って魔法ですね。
ところで、ググってみるとこの歌は東日本大震災の後に愛唱され、この「ねむる」「夜」は死の暗示である、という説もありました。確かに、この「わたし」、天使っぽいですもんね。天使っていうとちょっと宗教色が強すぎますが、なんだろうな…、うまく言い表せないのですが、「救い」の概念そのものという印象があります。
If I Had a Heart
私には心はないわ目と耳と孤独な頭脳をあなたはくれた (yuifall)
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