不定期読書感想文。
前に
で、「謎解きについては後日」と書いたのでアップします。
核心に触れているので以下畳みます。
ところで肝心の「謎」の方はさらっと読んだだけでは何が言いたいのかよく分かんなくて(だから文学部は無理だよなほんとに)、何度か読み返しました。
最後の方に図があって、『沙石集』(無住)←(反発)→『身投げ救助業』(菊池寛)→(執筆)→『頸縊り上人』(菊池寛)←(反発)→『往生絵巻』(芥川龍之介)→(執筆)→『六の宮の姫君』とあります。
『身投げ救助業』がいつ書かれた話なのかよく分からないのですが、文中では「『身投げ救助業』を書いた菊池寛はその後に読んだ『沙石集』の『入水の上人の事』に反発し、同じく『沙石集』の『頸縊り上人の事』を元に『頸縊り上人』を書いた(これは大正11年)」とされています。
『沙石集」巻四の六『頸縊り上人の事』では、上人の死は淡々と描かれるが「追い込まれて死に向かう者の、いい知れぬ無念が伝わりもする」「当の上人は妄執ゆえに魔界に落ちている」「臨終における執着には心すべし」とあります。また、巻四の七『入水の上人の事』では、上人は往生しようと決意し入水を選び、命が惜しい間は縄を引いて引き上げてもらい、それを何度か繰り返し、ついには縄を引かずに往生し、「めでたかりければ、随喜の涙かぎりなし」という結末を迎えます。
一方『身投げ救助業』については、これは実話をもとにしているのではないかという推測のもとで、「入水をした目の前に助けの棹が伸びて来る。≪覚悟をして居ても、さうした場合には、やっぱり本能的に生きたがるもの≫だ、それが人間だという菊池の思いは、まさに実感そのものだったのだ」と書かれています。
つまりここにある「反発」は、菊池寛が実際に目撃した人間の真実として、「人は自分の意志で覚悟して入水に向かったとしても、助かる手段があるならば助かる道を選ぶはずだ」という思いがあり、「助かる手段があるのにそれを選ばず死へ向かった」「入水の上人の事」に対する反発です。作中では、
彼の見た人間の弱さは、超人的な克己によって踏み越えられて、いや、踏みにじられてしまった。人は、それぞれ許せないことを持つ。これは、菊池にとって、まさに許せないことだったろう。三浦右衛門の最期を知り、≪There is also a man≫と膝を打った彼である。とすれば、入水の上人は、人間ではない。怪物である。
と書かれています。
(ちなみにこの『三浦右衛門の最期』では、命を捨てることが美徳とされている武家の価値観の中で命乞いをしたあげく無様に殺される三浦右衛門が描かれており、この≪There is also a man≫は「ここにもまた人間がいた(人間らしい人物がいた)」という意味かと思われます)
そんな彼が書いたのが『頸縊り上人』です。そこでの上人は、死を迷い、死を迷ったがために地獄に落ちる自分の姿を見てしまいます。そして縄を頸にかけて死のうとするのですが、躊躇ったあげく足を踏み外して落ち、結果的に死んでしまいます。つまり、結果として覚悟の自殺にはなっていないわけです。「卑小な人間の無残な死」と評されます。しかし「菊池はその苛酷な現実を断固として拒否する」とも書かれ、
すると、今まで蛙のやうに、ひしかれてゐた上人の身体から、異香が薫んじほとばしつて、その匂が群衆の間に、充ち満ち、極楽往生の証、今はかくれなければ、諸人嘲りの心須ち消えて、称名の声、しばらくは、大地をふるはせて起りにけり。
と、上人は往生したことが示唆されます。どれほど生に執着したみっともない死に方であってもそれが人間で、死にざまによって地獄へ落ちるものではないのだと。それが菊池寛の人間観で、彼は人間の弱さを愛する人だったのだろう。
しかし、『往生絵巻』を書いた芥川龍之介はこの『頸縊り上人』に反発して『六の宮の姫君』を書いたのだ、というのがこの本の主旨です。
『往生絵巻』は、「人を殺すことなど何とも思わなかった五位が、どんな悪人でも阿弥陀仏にすがれば浄土に行かれると聞き、仏の名を呼びつつ西へ西へと進み、ついに餓死したその口にはまっ白な蓮華が開いていた」という話だそうです。『往生絵巻』の元ネタは『今昔物語』巻第十九第十四で、「五位」は≪深い川があっても浅いところを渡らず、高い峯があっても廻り道をせずに、倒れ転びながら突き進んで行く。わき目もふらず、いわんや後ろは振り返らない≫と、一心不乱に仏を追い求める人物として描かれているようです。作中では、「五位の口に白い蓮華の花が咲くなどというのは芸術の上のお遊びで、本当ならば醜く腐っているはずだ」という感想を寄越した正宗白鳥に対し「そうではない」という旨の返答を芥川が寄こしたという書簡の一部が紹介されています(ここで正宗白鳥が作者自身に対して「私はそうは思わない」と言ったらしいのが超面白いなと思った)。
芥川は、やっぱり蓮華が見えない人だと思う。ただ、それなら蓮華を咲かせたのは≪面白づくの遊び≫かといったら、そんなことはない。だからこそ切実に≪信じたかった≫。そうに違いないんだよね。渇きながら水のことを書くようにこの話を書いたんだと思う。
芥川は五位の入道を創造した。≪全身の血が一度に燃え立≫つ思いで、ひたすらに仏を求め得る人物を。往生の印である白蓮華は≪彼≫にこそ与えられるのだ。そう思いたい。
それは、持って回って≪白蓮華は今でも後代の人の目には見えはしないかと思つてゐます≫という彼だからこその、切実な、真実の気持ちであろう。
とあります。つまり芥川にしてみれば、『頸縊り上人』で仏に縋ることもなく無様に死んだ上人が『往生絵巻』の五位と同じく往生を遂げたとするのはどうしても許せなかったのだと。そして書かれたのが『六の宮の姫君』です。
『六の宮の姫君』も原典は『今昔物語』巻十九第五だそうです。細かいアレンジはあるものの大まかな流れは同じで、ただ芥川版では姫の死に際の描写が大きく異なっているそうです。姫の死に際、彼女の乳母が近くにいた法師に「姫のために経を読んでくれ」と頼むも法師は「往生は人手に出来るものではない、自分で念仏を唱えろ」と言う。で姫は念仏を唱えようとするんだけど全然ひたむきに仏に縋ることができないまま死んでしまう。そして法師は「あれは極楽も地獄も知らぬ、不甲斐ない女の魂だ」と。
ここで、この法師の正体が明らかになるのですが、それは「慶滋の保胤」という人物で、これも『今昔物語』巻第十九第三の登場人物だそうです。どんな人かというと≪道に徹する者≫、「人の失笑を買うほどに仏道一途なの。狂気といってもいいわ」と書かれています。つまり「一心不乱に仏を追い求める」「五位の入道」的な人物かと思われます。だから「五位の入道」や「慶滋の保胤」のように一途に仏に縋れるものだけが往生し、「六の宮の姫君」は往生できず「極楽も地獄も知らない」のだと。この姫君について、作中の<私>は、「どう考えたって自分(*芥川)のこといってるんだものね」と指摘しています。
芥川は自分をどうしようもない人物だと思っていて、一途に仏に縋ることはできない人間だと考えている。そして、どれほど悪人だったとしても一途に仏を求める人間だけが往生を遂げるのだと信じている。だからこそ、どうしようもない人間を無条件に許し、往生を遂げさせた菊池寛を許せなかったのだと。
菊池寛の懐の深さと人間愛が芥川の潔癖さと相容れなかったのかと考えるととても悲しい気がします。菊池寛は、そんな芥川でも(だからこそ)大切に思っていたんだろうにね。
じゃあ自分は菊池派か芥川派かと考えたのですが、そもそも死生観が当時と違い過ぎて全然分からん。だって「往生」の価値が分からないですもん。私は人間は弱いものだと思うし、それを受け入れて愛する菊池寛の気持ちは分かる。一方、(仏がどうこうは置いといて)一途に救いを求める者に報われてほしいという芥川の気持ちも分からないでもない。五位の「白蓮華」については正宗白鳥派だし、実際は腐って朽ちたんだろうと思うんですが、そこに白蓮華を幻視する芥川の痛いほどの祈りを感じ取ることはできます。
しかし、そういう含意も併せて読めば『往生絵巻』の五位は往生し、『六の宮の姫君』の姫君は極楽にも地獄にも行けなかったのかもしれませんが、一方あくまで表面的に世俗的に読めば、人殺しを何とも思わなかった五位は仏に縋っても結果野垂れ死にし、特に何もしなかった(いい事も悪いことも特にしてない)姫君は少なくとも2人の彼女を愛する人間に看取られ、死を悼まれたと読むこともできるかなと思いました。どちらが幸せなのかね。それはやっぱり「往生」「極楽」の価値が分からないと理解できない。そして死が身近だった時代の、死に対するひりつくような感覚、何かに縋って生きたいという切なる願いを完全に理解し共有することはできないと思う。
この小説の中で私が一番引っかかったのはこのくだりです。
「芥川の晩年の文章でね。僕の忘れられないものがあります。バクテリア、芥川はバクテリヤと書いていましたね、その話です。覚えていますか」
「いいえ」
「もし生まれ変わるなら、というテーマの文章です。その中でこういうことをいっている。もし生まれ変わるなら、馬か牛になる。そして悪いことをする。そうしたら神仏が雀か鳥にするだろう。そこでまた悪いことをしてやる。今度は魚か蛇にされる。またそこで悪いことをする。虫にされる。それでもまた悪いことをする。樹か苔にされる。また悪いことをする。バクテリアにされる……」
私は次第に身を引いていた。背筋が寒くなった。
「それでもまだ悪いことをしてやったら、神や仏は僕をどうする了見だろう。それを思うと、生まれ変わり続けて、順々に悪いことをして、死に続けていってみたい気もする」
その言葉に機知は感じられなかった。真打ちの語りに解釈を誘導されたのかもしれないが、私が、そこに読めるのは、どうしようもない深い孤独だった。
円紫さんは、静かにいった。
「人は、いろいろなことを考えるものですね」
これ読んで、現代人の感覚で「背筋が寒く」なり、「どうしようもない深い孤独」を読み取れるだろうか。大正時代の芥川の死生観で読まないと無理じゃないか?私には、なぜ 人>馬・牛>雀・鳥>魚・蛇>虫>樹・苔>バクテリア と序列をつけることを共通認識として信じられるのかもよく分からないし(人がバクテリアより優れていると思うか?「いいこと」をして死ねば神仏が次は人間に生まれ変わらせてくれると本当に信じられるか?)、「悪いこと」が一体何を指すのかもよく分からない。“人食いバクテリア”溶連菌は悪い奴で“ヤクルト”ビフィズス菌はいい奴なのか?バクテリアになることの何が悪いのか?こういうの突き詰めると「自由意志と宗教」とか「自殺と宗教」とか「救いとは」みたいなことにどんどん進んでいってしまって手に負えないし、多分、当時の(あるいは芥川の)感覚や死生観を学び、それを踏まえて頭で理解しようと思えばできるのかもしれないけど、結局のところ感覚を共有することは絶対にできないと思う。だからむしろ、90年代の女子大生である<私>がなぜ即座に「背筋が寒く」なり、芥川の心情を理解できたのかという方が気になります。いわゆる「解像度」の違いなのか?それとも単純に感性の問題なのか?そういえば冒頭に、チーズケーキを食べながら本を読んでいたら本にチェーホフの書く《殺害後のむごたらしい光景の描写》の一例が出てきて「お行儀が悪い罰が当たった」と感じるシーンがあるのですが、『家畜人ヤプー』読みながら昼ご飯が食べられる私はここ読んでちょっと驚きました。あー、そうなんだ、感性が鋭いってこういうことなのか、と思った。ほんと、この小説の<私>はイノセントワールドの住民ですね。
作中の<私>は私とは感じ方や考え方が違いすぎて驚きもあったし、どう考えても年代的には私より年上ですけど作中では大学生というのもあってかわいいなって思ったりもしました。文学が大好きでめちゃくちゃ頭でっかちなんだけど人生経験ほぼないんですよね。就職もすんなり決まっちゃうし、氷河期世代より前生まれなのかな。これが都甲幸治の言う「早稲田文学部は文系のネバーランド」ってことなのだろうかと感じ、素直に羨ましかったです。俗世間に晒されずピュアに文学を追い求める空間が存在し、そこにいられることが。作中ではかなりおぼこい感じの描写もあり、このまま純粋培養でどこまで人生歩めるのだろうという感もありつつ、一方でミステリのシリーズにおいて恋愛で人間関係激変するのにはうんざりさせられるので、このまま「正ちゃん」と「円紫さん」と一緒に楽しくやってるの見たいなーと思ったりもして…。まあ、シリーズこれしか知らないので実際どうなるのか全然分からないのですが。シリーズ読みたいんですがリアル本しかなくてなー。電書なら即座に全巻買ってるのですが…。