「一首鑑賞」の注意書きです。
236.わたしたち寝てもさめてもカブトムシみたいに西瓜ばかり食べていた夏
(入谷いずみ)
前回「一首鑑賞」-235 入谷いずみの歌がいいなぁと思ったのでググったところ、『橄欖追放』に記事を見つけたのでそちらから。
歌集『海の人形』からの引用のようです。解説には
歌集前半は故郷徳島で過ごした子供時代の思い出であり、純然たる口語で詠われている。
とあり、これは徳島の光景のようですが、この歌だけピックアップすると普遍的な「懐かしい日本の夏」としても読めそうに思えます。「わたしたち」とありますが、歌のバックグラウンドを知らなくても、やはりひと夏の恋とかではなくて、きょうだいやいとこが連想されます。「カブトムシみたいに」という比喩がそうさせるのかな。言うまでもなく「虫取り」は子供を連想させるし、この比喩自体が、他のものには目もくれず無心になっている様子をイメージさせます。
この記事では、作者の多面性について書かれています。入谷いずみは大学で古事記を研究していたとかで、文語の短歌も引用されます。
すつぽんの骨をかちりと皿に吐きゑゑなまぐさき我が鬼女
黄泉比良坂(よもつひらさか)越えさりゆけばあるらむか男子(おのこご)住まぬ国の恋ほしき
このあたりの考察はとても興味深く読んだのですが、ほぼ引用になってしまうので、元の記事をご覧ください。その中で、コンプレックスと距離を取るために文語を用いるのだ、と考察している部分があり、ここだけ引用します。
つまり、文語定型は80年代以後の若者にとって、日常的な等身大の〈思い〉を盛る器としては相応しくないものになってしまったということなのだ。〈短歌と思いの距離〉が大きすぎるのである。入谷が自分のコンプレックスを詠うときだけ文語にシフトするのは、その裏返しである。つまり〈短歌と思いの距離〉が大きいために、自分のコンプレックスを生々しくなく歌にすることができ、それによってコンプレックスを悪魔祓いしたいという密かな願望が隠されているのである。
この気持ちは分かるなって思います。枡野浩一が「文語で歌を作るのは英語で作るようなもの」と(悪い意味で)言っていましたが、つまり自分のナマの気持ちと距離を取れるという点で口語ではない言葉には利点もあります。自分が鑑賞する側に立った時も、普段使っている日本語(口語)だと言葉と意味が近すぎて疲れると思うことがあります。だから洋楽聴くのが好きなんですよね。ちょっと分からないとこが好きなの。文語の短歌も、読む側の立場で言うと、ちょっと分からないところがいいんだと思います。掛詞とかテクニック的な部分を味わう読み方ができたりして。上で引用した歌で言うと、「ゑゑ」って字面に「骨」「吐き」「なまぐさき」「鬼女」ってかぶさってくる感じが読んでいて純粋にかっこいいし。
入谷いずみの歌絶対読んだことあるよなぁ、って思っていたら、
人魚姫と王子が出逢うその脇でわかめになってそよぐわたくし
をかつて取り上げていました。ググると
が一番引っかかってきます。いずれも「黄泉比良坂」とは全然テイストが異なる歌です。『橄欖追放』で引用されていた歌の中だと
ため息をつけば緋色の魚散る水の向こうにあなたを探す
なんてとても好きでした。
それこそ「多面性」にとても心惹かれる歌人です。歌集読みたくなりました。
緋の汁に染まるあなたの指先を異界のものと知りつつしゃぶる (yuifall)