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「一首鑑賞」-128

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

128.僕はいくつになっても夏を待っている 北蠅座というほろびた星座

 (土岐友浩)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」で黒瀬珂瀾が取り上げていました。

sunagoya.com

 「僕はいくつになっても夏を待っている」に心を撃ち抜かれました。やっばいですねー。言葉ってほんと、すごいな。「ほろびた星座」も萌える。この歌、すっごくツボでした。

 

 「北蠅座」は今は使われていない星座の一つで、おひつじ座のあたりにあるようです。Wikipediaでは

 

現在のおひつじ座33番星、35番星、39番星、41番星が使われていた。

 

とあるので、今はおひつじ座に含まれちゃっているのでしょうか。同じ星を「みつばち座」「すずめばち座」「百合座」などとも表していたそうですが、今はどれも使われていないとか。それにしても、「Musca(ムスカ)」って蠅のことだったんですね。

 

 鑑賞文には

 

この滅びた星座は、世界を解明せんとする人類知の歴史の、ささやかな痕跡だ。様々な研究はその多くを無駄に終え、そして、膨大な無駄の集積から、次代への発展が紡ぎだされる。それはどこか、気の遠くなる未来を見据えた話で、無限の世界への憧れを掻き立てる。そして、小さな人間である作者は、その遠い思いの中に、限りなく巡る夏を待つ。

 

とあり、

 

短歌において、永遠を見つめることと、小さな生活を見つめることは、ある意味、同義ではないか。

 

と結んでいます。

 

 ですが、私はこの「北蠅座」を「人類知の歴史の研究の痕跡」の象徴とは読みませんでした。そもそも「星座」が科学的な存在だとは思えないし…。どちらかというと「ロマン」的なものですよね。「北蠅座」が消滅したのは、例えばその一部が恒星ではなかったことが発覚したから、みたいな合理的な理由ではないのでは?経緯は分かりませんが、なんとなく使われなくなった、みたいな感じがします。

 太古の人が夜空に描いた星座の一部が今は「ほろびて」、なくなりました。もしかしたら今知られている星座も、いずれなくなるのかもしれない。だって「星」があるのと「星座」があるのは、意味合いが全然違いますよね。星がそこにあっても、星座を描いて意味を見出そうとする存在がいなくなれば星座は消えるしかないのだから。そこにあるものは変わらなくても、そこに見えるものは移り変わっていく。だけどいくつになっても夏を待っている、という風に読みました。

 

 あと引っかかったのは、「いくつになっても」なんですよね。「いつになっても」じゃないんだ。もしこの歌に「永遠性」を読むとしたら、「いつまでも」あるいは「いつになっても」になると思うんです。「僕はいつになっても夏を待っている」。こうなれば、人類が皆滅びて星に星座を見るものがいなくなっても、僕は夏を待ってる、みたいに「永遠」の歌として読めると思うんです。でも、「いくつになっても」っていうのは、「自分が生きている間」って感じがする。どちらかというと「失われた青春」の歌というか。

 何歳くらいの頃に詠まれた歌なのかは分かりませんが、イメージ的には、「僕は大人になって、星を見上げる時間は少なくなっていくのかもしれない。でも、この気持ちを忘れない。いくつになっても夏が来れば、夜空に北蠅座を探すだろう」っていう感じ。だからほろびてしまった「北蠅座」は、若い頃にしか持ち得なかった何かの暗喩なのかなぁと。

 

 他の解釈も知りたいなーと思ってググったら、『橄欖追放』の記事にあたりました。といっても歌は引用されているだけで特に解説とかはないんですが…。

petalismos.net

 ここでは、西田政史の

 

珈琲にミルク注ぎて「毎日がモカキリマンジャロのほどの差ね」

 

と対比する形で引用されています。解説にはこうあります。

 

いつの時代の若者も倦怠感や虚無感を抱きがちで、それは若者の特権と言ってもよいほどだが、この歌(注:西田政史の歌)のポイントは虚無感がお洒落なコーヒーに譬えられて、明るくポップに表現されているという点にある。

(中略)

あれから20年近く経った現在(2008年)の若者は次のような「不景気な歌」(by荻原裕幸)を作っているのである。歌に込められた若者の虚無感の総量は変わらないとしても(そう信じるとしても)、両者の表現手法の差は驚くほどである。

 

 そしてこの「不景気な歌」として引用されているうちの一首が、「北蠅座」の歌です。つまりこの文脈から言うと、この歌は「若者の虚無感」を詠った歌として引用されていることが分かります。ちなみに土岐友浩は1982年生まれだそうなので、2008年には20代半ばですね。

 でも、西田政史の歌はポップな退屈さを感じさせる一方で、もしかしたら実は(ラノベっぽい発想ですが)すっごい波乱万丈な毎日なのに「今日も昨日とおんなじね♡つまんなーい♡」みたいに言っているような雰囲気もあります。でも土岐友浩の歌は、失ったものをいくつになっても待っている、ずっと思い出し続ける、という感じであまり裏は感じさせず、そういう点で確かに「不景気」なのかも。

 

 一つの歌に対して色々な読み方や批評があって面白かったです。歌集で前後の状況を読めばまた違う印象があるのかもしれませんが…。

 

 ちなみに(自分の言葉を引用するのかなり微妙ですが)「モカキリマンジャロ」の歌について、『現代歌人ファイル』の感想で

yuifall.hatenablog.com

おおーなんかおしゃれだけど、モカキリマンジャロってすごい違うのかそれほど違わないのか分からんな(笑)。コーヒー好きか否かでだいぶ感じ方が変わりそうな歌ですね。

 

とか書いてましたけど、『橄欖追放』の記事によれば

 

掲出歌は〈私〉と恋人の朝食の場面だろう。毎日の暮らしの起伏がモカキリマンジャロというコーヒー豆の味の差くらいしかないという淡い虚無感が、上2句の文語と下3句の口語の文体的落差の中に落とし込まれている。

 

とのことなので、「それほど変わらない」のが正解なのかもしれません。でもやっぱりコーヒーマニアにとっては「それほど変わらない」わけないのでは、とも思ってます。

 

 

永遠の数字になって会いに行く 公衆電話が鳴るの待ってて (yuifall)

 

 

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