山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
栗原寛
男らしさを誇示する人の多ければ西武池袋線はまたせまくなる
紳士服売場の白・黒・灰・茶・紺 男社会は曇天である
この人の歌を読んでいて、男性であるとは、男性として生きるとは、ってことを考えました。こういう歌、男性であって、男性であることに自覚的で、かつそれを苦しく思っている人しか詠めない歌なんじゃないかなって感じます。脚を開いて座ること、モノトーンの服を着ることが社会における一人前の男らしさなんだろうか。なんだか息が苦しくなってくるような歌です。
わが内におしこまれくる塊をいざ受け容れむ腕をさしあぐ
男にて生ませざること男にて生みたしと思ふこと罪なりや
1979年生まれの男性ですが、こういう歌はある意味カミングアウトに等しいと思うのですが、どういう思いで詠んだんだろうか。ただの相聞歌ではなくて、「受け容れる」「生みたし」「罪」ってはっきり口にするのは、どういう思いだったんだろうか。上の歌なんて、同じことを女性もするけど、女性はこういう詠い方はしないのではないかという気がします。何度も書いているのですがgleeが好きで、登場人物がセクシャリティで葛藤するシーンを見るといつもすごく胸が苦しくなるのですが、この人の歌を読んでいてそれと同じ苦しさを感じました。
死にたしと思ふ心と生きたしと思ふ身体と空を見てゐる
という歌もあります。
炎天の校庭 体操着のきみと僕と引きたる真つ白な線
解説には
歌集には「少年」という言葉が頻出する。その描かれ方は春日井建を思わせ、さわやかながらも耽美的なエロスもたたえている。この「少年」は作者自身の自画像ではなく、作者が演出する舞台の上の俳優といった雰囲気がある。
とあります。このシーンはまだ思春期だから「耽美的なエロス」でこの「僕」は「舞台の上の俳優」だったのかもしれないけど、この美しい描き方とは相反して、実際はもうこの時、「きみ」と「真つ白な線」を引いていたこの時、自分自身の、「生ませざる」「受け容れる」生き方を選ばざるを得ないという現実を自覚していたのかもしれない、という気もしました。この「真つ白な線」はきみと僕が一緒に引いた線でもあるけど、同時にきみと僕との間に引かれた線でもあったのだろうと。これから人生が避けようなく隔たっていくんだ、っていう。「きみ」は鼠色のスーツを着て、西武池袋線で足を広げて座って、「おしこんで」、「生ませる」人生を送るのかもしれない、だけど「僕」は曇天の男社会を「罪」として生きていかなくてはいけない、って、この時すでに思っていたんじゃないかな。
今、この人にとって少しでも生きやすい世の中だといいなって思います。生むことはできないけど、それでも「罪」ではないよ、死にたいと思わないでほしい、って。
まーそもそもシスジェンダー、ヘテロセクシャル以外であることが「罪」って一神教的な発想ですよね。日本は本来もっとそういうのオープンだったわけだし、もっと言うなら本来は人間って誰でもグラデーション的なセクシャリティを持ってるんじゃないのかなって気もします。男性的なところも女性的なところもあって、男性にも女性にも惹かれるというか。その濃淡は人によって差があるでしょうけど。あとは精神的な恋愛の部分と肉体的に惹かれる部分もまた濃淡があるだろうし。
こういう時、「男性的」「女性的」って表現も多分よくないんだろうなって思うけど、それに代わる言葉が思い浮かばないな…。
色々書きましたけど、別に元のページでこの人のセクシャリティに触れた解説はないですし、私も実際のところは分かりません。黒瀬珂瀾だって
要するに世界がこはい 夕立に気がついたなら僕に入れてよ
妻と児を待つ交差点 孕みえぬ男たること申し訳なし
って詠んでますし。
色ひとつ選ぶ能はず天弓のあはひに足を取られてゐたり (yuifall)