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読書日記 2024年8月28日-9月3日

2024年8月28日-9月3日

・ギ・ド・モーパッサン(永田千奈訳)『女の一生

ウィリアム・シェイクスピア安西徹雄訳)『マクベス

ウィリアム・シェイクスピア安西徹雄訳)『リア王

・作者未詳(蜂飼耳訳)『虫めづる姫君堤中納言物語~』

鴨長明(蜂飼耳訳)『方丈記

唯円親鸞川村湊訳)『歎異抄

小池真理子無伴奏

佐藤文香編アンソロジー天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』

・作者未詳(大岡玲訳)『今昔物語集

アンドレ・ジッド(中条省平、中条志穂訳)『狭き門』

 

以下コメント・ネタバレあり

・ギ・ド・モーパッサン(永田千奈訳)『女の一生

 親の因果が子に…というか。父親が娘を言いなりに育てようとして、娘は息子を甘やかして、それぞれみんなダメダメになる話でした。父親も母親も夫も浮気し放題だし、息子はよく分からん女と駆け落ちして山師になるし、これタイトルの和訳は『女の一生』だけど、実際のフランス語タイトルは「ある人生」「ある命」みたいな、要は“A Life”なんだそうですね。確かに、正直「女の一生」に限った内容ではないです。

 大学時代、先輩(男性)に「女の人生なんてつまんないよな」って言われたことがありました。つまり稼いでくれて専業主婦にさせてくれる男に愛されて結婚し子供を産み育てることが目標の人生なんてつまんないよな、というニュアンスで、これ読んでてそのこと思い出した。途中まで、主人公のジャンヌは、仕事しなくてもいい貴族で(使用人がいるので)専業主婦ですらなく不実で吝嗇な夫と2人でド田舎の城に暮らして退屈してて、こりゃー“女の一生”つまんないわー、って思ったもん、実際。でも途中からこれは別に“女の一生”がくだらないって話じゃないのでは、と思ったし(だってこれ、夫の人生もジャンヌの人生以上にくだらないし逆にロザリや息子の人生はそこそこ波乱万丈である)、最後の方読んでて、かつて夫と不倫して家を出た女中のロザリとの会話読んでそうだよなって思った。

 

 何かといえば「私はつくづく運がない」とつぶやき、そのたびにロザリに大声で叱られる。

「食べるものに困って働かなければならないわけでも、毎朝六時に起きて一日じゅう働くわけでもないのに、何をおっしゃいますか。そうでもしないと生きていけない人はたくさんいるんですよ。そういう人たちは一生働いた挙句に、年をとって働けなくなったら、惨めに死んでいくしかないんですからね」

 ジャンヌは言う。

「でも、私、息子に捨てられて一人ぼっちなのよ」

「それぐらい何ですか! 子どもが兵隊にとられたり、アメリカに行ってしまった人だっているんですよ!」

 

 ロザリは最後に

 

「ねえ、ジャンヌ様、人生ってのは、皆が思うほど良いものでも、悪いものでもないんですね」

 

って言うんですが、これ言いたいがためにこの小説書いたんじゃ、という気がした。

 訳者は

 

これだけ情報があふれ、女性の地位向上が(ある程度は)実現した現代にあっても、男女を問わず、人は自由ではないのだ。(中略)夢を見ることはいけないことではない。だが、すべての夢がかなうわけでもない。それでも、はかない希望を抱いてしまう。それが人間だとモーパッサンは見せたかったのだ。

 

と書いてます。サマセット・モームの『月と六ペンス』に「人はなりたいものになるのではなく、ならざるを得ないものになる」みたいに書いてたけど、そういうことかもしれません。

 ちなみに上でそう言ってた先輩は今や3児の父となり、子供のそばにいたいと脱サラし、専業主婦の奥さんの実家近くの田舎で自営してばりばり稼ぎながら子育ても超してるので、あの頃は尖ってたな~って感じかもしれん。今「キャンセルカルチャー」とかって、昔の失言ややらかしをいつまでも取りざたする傾向ありますけど、10代~20代前半で尖った発言とかやらかした言動することって自分もあったし周りもあったし、そういうの許せない社会ってどうかなぁと思います。若者を萎縮させるとつまらない社会になるのでは。

 

ウィリアム・シェイクスピア安西徹雄訳)『マクベス

 最近よく『マクベス』二次小説に巡り合うので新訳で原典読んでみました。最初の“Fair is foul, and foul is fair”が「晴々しいなら 禍々しい、禍々しいなら 晴々しい」と訳されていて、この訳し方は初めて見ました。ちょっと気になったのが「女から生まれた男は誰もマクベスを傷つけられない」という部分で、これ原文は“Laugh to scone The powre of man: For none of woman borne Shall harme Macbeth.”なので、確かに「女から生まれた男は誰も…」なんですが、結果的には“女の腹を破って(帝王切開で)”生まれた男に殺されることから、「女の股から生まれた男には…」と一般的には訳されているような気がするし、その方が意味が分かりやすいよなぁと思った。でもこれ劇だし、口に出しやすい台詞に訳しているのかもしれず、良し悪しについては何とも言えないのですが…。

 シェイクスピアは子供の頃に児童文学版で読んで以来なのですが児童文学版は小説になっていたので、戯曲形式で読んだの初めてかもしれません。劇見たくなりました。戯曲版読んでみて、もしかしたらシェイクスピアは読むより演劇で見た方がいいのかもと思いました。

 あと、『マクベス』二次小説読んで…とか書きましたけど、シェイクスピアの戯曲にはほとんど元ネタがあるそうなので、すでに『マクベス』自体が二次創作なのかもしれない。ということは『あるキング』とか『未必のマクベス』は三次小説なのか。文芸っていかにオマージュでできているかという話ですね。

 

ウィリアム・シェイクスピア安西徹雄訳)『リア王

マクベス』も『リア王』も現代の感覚だとよく分かんないよなぁ。この仰々しい感じ。やっぱり演劇で見たいです。『リア王』は、現代に置き換えると、

 資産家の父親が子供にウザい試し行為

→妹が空気読めない回答をして父を怒らせたため、姉に生前贈与

→父親は姉の家に寄生

→姉は気性の荒い父を邪慳に

→遠方に嫁いで特に世話もしていない妹が「お父様かわいそう…」とか口出し

→拗れる

みたいな誰一人得しない身も蓋もない流れに思えます。父親は生前贈与などせずに自分の金で人を雇って世話してもらうべきだし姉は金貰ったならそれなりに世話するべきだし妹は面倒見てないんだから口出しすべきでないでしょ。そういうストーリーの流れより、王にくっついて風刺してくる道化の存在が面白いとこなのかなぁ。

 

・作者未詳(蜂飼耳訳)『虫めづる姫君堤中納言物語~』

「あたしは虫が好き(原題:虫めづる姫君)」がやっぱり面白かったのですが、「それぞれの恋(ほどほどの懸想)」「越えられない坂(逢坂越えぬ権中納言)」「貝あわせ(貝あはせ)」も好きでした。「虫めづる姫君」は、自分を貫く!って話で、時代に摩耗されない普遍的な面白さがあると思います。まぁ、最後「姫君は恋をして幸せになれるのか!?」みたいなクリフハンガーで終わるので、平安時代の幸せってそこが限界なのかもしれませんが…。数年前くらいに女性でもムダ毛剃らないとかそういうブームあったような気がしますが、「私の身体、私の心は私のもの!」を貫くことで得られる幸福が多様化し、男に見初められる以外のゴールがあるのはよいことですね。「ほどほどの懸想」は身分の違いや性格によって恋の楽しみ方や真剣さが違う3組の恋人たちが登場して面白かったです。

 全て、訳の次に「読み方」というか詳細な解説が載っているので、とても読みやすいです。これってどういうこと?って思うような内容も詳しく説明してくれているので、理解が深まります。一方でちょっと気になったのは登場人物の口調なんですが、確かにこの古典新訳文庫のコンセプトは「いま、息をしている言葉で」ということみたいなので「〇〇だよ」みたいな話し方になるのかもしれないんですけど、やんごとなき立場にあられる姫君にそんな口調で話されると違和感は否めない…。しかしこちらの先入観という問題も多分にあります。外国語の翻訳と違って、古文に関しては中学・高校の授業で「〇〇であることだよ」とか「〇〇であったことだなあ」みたいな訳が染み込んじゃっているので、そうじゃない訳に違和感がある気持ちと確かにそんな日本語使わないなぁ、って気持ちがせめぎ合って没入感が殺がれる。

 

鴨長明(蜂飼耳訳)『方丈記

 読んでみるととても短かったので驚きました。火災、竜巻、地震、飢餓、遷都などで都が翻弄される様子から贅沢な住まいや生き方の儚さを知り、移動式の狭い草庵でひっそり暮らしているという内容の随筆です。しみじみ納得できる一方で実際そんな生き方をするのは容易ではないし、また現代ではどんなに山奥に暮らしていても最低限の生活インフラがある以上完全に独立独歩で生きることはできないのでは、とも思う。自分の山でテント生活すればそういうこともできるのかな。それともそれでも水の使い方とか住所の取り扱いとか色々制限あるのかな。ネット使うなら使用料とかもあるだろうし。訳者は、「実際には悟っていないからこのような文章が残っているのだろう。そこに私たちは共感するのだ」と書いています。確かに完全に悟りを開いていたらこんな随筆書かないよなぁ、とか、当時は紙や筆記用具も高級品だっただろうしどこからかそれらを手に入れていたんだよなぁ、とも思いました。

 本文はとても短いのですが、訳者のエッセイや解説、『方丈記』の原典など色々載っていて読み応えがあります。

 

唯円親鸞川村湊訳)『歎異抄

 まさかの関西弁!関西弁を頭の中で標準語に変換して読んでいるので意味取りづらいのですが、でもこういうノリの本だったのか…という驚きはありました。最後、親鸞唯円も含めて法然の弟子たちが流罪や死罪となった記録が残されていて、それも含めて心がしーんとなりました。

 努力が意味ないとは思わないけど、努力で何でもできるという考えも傲慢だよね。諦めなければ夢は叶うというのは、子供の頃夢見ていた人生を歩んでいない人は全て「諦めたから」ということになるし、努力は報われるというのは、報われなかったら全て努力が足りなかったからだということになる。もちろん何もしなくていいわけじゃないけど、そういうメリトクラシーが横行すると息苦しくて辛いと思う。人は結局なるようになるというか、ならざるを得ないものになるんだろうし、そんな自分のまま救いを求める、それが悪人正機なんだろうと思う。自分の限界、身の程を知り、一心に祈ること。

 歎異抄は、子供の頃に『最後の親鸞』(吉本隆明)の一部を読んでちょっと触れたことがあったきりで、あとは「悪人正機説」と「千人殺せるか問答」で知っている程度だったのですが、全文読めてよかったです。何度も読みたいです。

 

小池真理子無伴奏

 久々に再読。日本の恋愛小説読むの久々な気がしますが、一つ一つの描写が美しく、真に迫っていて、苦しいくらいでした。こんな小説書ける人は本当にすごいなと思います。仙台の街、1970年という時代感、どこか遠いところを見ている恋人、自分自身の気持ちの流れ。渉と祐之介はなんで一緒に暮らしていたんだろうなぁと思います。普通の友達でいたくて、2年間もそういうことしてなくて、他に恋人もいて、だったら一緒に暮らす必要なんてなかったのに。離れたくても離れられなかったという言葉を信じることはできないよね。離れたくなかったんだろうなと思う。そしてそれが分かってしまうのがとても辛い。しかし「私」の立場からすると破れた恋程度の話ですが、エマからしたら妊娠したあげく殺されてるわけで、マジで許されないよなーと思う。「2日間の自由のために殺した」とか言ってますけど、確かに20代の若者からしたらそういう考えになるのかもしれないけど、最後40代半ばに出所して結婚してある程度人生を取り戻してるし。エマは死んでるわけで。こういう残酷なリアリティまで書けるとこがすごいなと思うし、これは若い時には分からないことなのではないかとも思いました。

「私」の一人称で書かれるのですが後から見ると叙述トリック的というか、ミステリ的な読み方もできます。「あなたは誰を愛してるの」、と問いかけながら、相手は実の姉ではないかと疑う。自分ではないと思い詰める。これ、相手が祐之介なのと勢津子なのとどっちがキツイんだろう。渉と祐之介は同性愛者なんだろうか。色んなこと考えました。小池真理子の本他も読んでみたいんですが、あんま生々しいとちょっときついなぁと思い二の足踏んでる。

 

佐藤文香編アンソロジー天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』

 普段俳句には全然親しんでいないのですが、これは『桜前線開架宣言』『はつなつみずうみ分光器』の系列本だったので買って時々ぱらぱらとめくって読んでます。といっても最初から順番に読もうとしていつも同じ人のばっかり読んでしまうので、次からは拾い読みしようかなー。最初の福田若之が好きすぎて、そこで時間取られちゃうんですよね。いつも。

 最初から順番に読んだ時に好きだった俳句をいくつかのっけときます。ほんとに最初の3人だけ。引用するとキリがないので。でも次読んだらまた他の人のやつ引用したいです。

 

ながれぼしそれをながびかせることば (福田若之)

 

ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 

 

箱庭の作者が写り込む水面 

 

うなずくからどんなに遠い滝だろう 

 

五月来る甍づたひに靴を手に (生駒大祐)

 

心中のまづは片恋たちあふひ 

 

蝶老いにけり一塊のマーガリン 

 

のぞまれて橋となる木々春のくれ 

 

毛虫焼く頭の中で蝶にして (北大路翼)

 

起きてゐる暗さ真鴨が杭の上 

 

ウーロンハイたつた一人が愛せない 

 

墓洗ふお前はすでに死んでゐる 

 

・作者未詳(大岡玲訳)『今昔物語集

 けっこうなヴォリューム感ですが、これでも元の『今昔物語集』の1割弱程度だそうです。芥川龍之介の「鼻」「芋粥」「羅生門」「六の宮の姫君」などの元ネタが読めます。蒲松齢の『聊斎志異の怪』読んだ時も思いましたが(こっちでは、これを元にした芥川龍之介太宰治の小説も載っている)、同じ話を元にしていても書き方や文体によって全然違う印象を受けるなぁと。『今昔物語集』はわりと淡々とした語り口で、それはそれで読みやすいのですが。だって芥川龍之介の文体で90話はちょっと重たいよ…。

 わりと聞いたことあるような話も多く、全然古典文学に親しんで来なくてもこういう話って身に沁みついてるのかもしれないと思いました。特に仏教が基礎にある話とか、普段全く宗教とか意識してなくても、こういうの知ってるなぁとかこういうの分かるなぁという文化が自分の中にあることを認識させられました。

 

アンドレ・ジッド(中条省平、中条志穂訳)『狭き門』

 なんだかなぁ。こんな話だったん?以前『桜前線開架宣言』の服部真里子の感想で、

 

届かないものはどうして美しい君がぶどうの種吐いている

 

という短歌の感想としてこんなことを書きました。

 

中津昌子が

ぽっかりと我らの席は闇に空きリア王一幕始まりていん

という自分の歌の解説に、「完璧に愛するためにはあなたも私もいない方がいい」と書いている、というのを俵万智が「あなたと読む恋の歌百首」という本で引用しているのを読みましたが(なんてややこしい文章なんだ…)、つまりはあなたも私もいないからこそ愛は完璧である、届かないからこそ美しいんだ、ってことなんじゃなかろうか。

 

yuifall.hatenablog.com

 まさに「完璧に愛するためにはあなたも私もいない方がいい」という話でした。天上の愛のためには肉体も、更に言えば個人の意思や精神すら邪魔だということですね。愛し合っていながら「幸福のために生まれたわけではない」と主人公を拒絶するアリサは、夫を捨てて若い男と出奔した母の血を憎み、それに怯えていました。信仰と愛のはざま…みたいな葛藤が全くピンと来ない立場からすると、この人は悲劇のヒロインぶりたいだけなのではないかという感じもするのですが、一方、確かにさぁ、これ、もし普通に結婚したら母親みたいな女になった可能性もあるよね。神聖な結婚で結ばれた愛情であっても、その先にある情交を知ってしまった女が身を持ち崩し…という古臭い昼ドラ的な展開になったかもしれん。それ思うと天上の愛に殉じたのは、逆説的ですが、自分なりの幸福を追い求めた結果として納得できなくもないです。しかし出家して完全に未練を断ち切り信仰の道に没入するでもなく(出家しなかったのは父親がいたからかもしれませんが)、「妹の幸福は私の犠牲の上に成り立つべきだったのに…」とか「愛してるの、でも…」と繰り返すアリサはやっぱ結構ダルいなぁと思う。信仰とかどうこうではなく、この人は妹と主人公に結婚してもらい、その2人の近くで暮らし「アリサ、本当はきみを愛してる」「だめよ、あなたにはジュリエットが…」とかやって気を引きつつも身体は許さず、べたべたと傷つきながら一生過ごしたかったのではないかと勘繰りたくなります。

 これはジッドの自伝的小説なのだそうです。潜在的同性愛者でありながら従妹マドレーヌを精神的に愛したジッドは彼女と結婚しますが、それは全く肉体的交わりのない結婚だったとか。マドレーヌはアリサと同様、母親の淫蕩な血に怯え肉体の愛を拒絶して生きた人だそうです。しかしジッドはマドレーヌを天女のごとくあがめながら、彼女が息子のようにかわいがった少年と同性愛関係になったり愛人の女に子供を産ませたりと客観的に見るとやりたい放題ですね。正直、女が愛のさなかに若くして死ぬ話って好きじゃないのですが、これに関しては死ななければジッドの妻、マドレーヌと同じような状況になったとしか思えないし、アリサの死によってこの小説が完成したのはそりゃそうやろなって思います。若い頃の恋に区切りをつけ、心を切り替えて現実的な愛と生活に生きたジュリエットの方が個人的には好ましく感じますけど、その生き方は小説にはなりませんよね。でも小説になんないような普通の人生を送る普通の人が普通に好きです。