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現代短歌最前線-大田美和 感想3

北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。

 

yuifall.hatenablog.com

 大田美和③

 

フェミニズム論じ面接室を出て教授は男ばかりと気づく

 

「<大田美和>が好きなんです」とやわらかく言わねばならぬ夫婦別姓

 

英語で話すほうが素直になれるのはミワと呼ばれるせいかもしれぬ

 

 今回はあえてフェミニズム的なやつを集めてみました。こういう歌を見ると、20年前と今とそれほど変わっていないことに逆に驚かされます。男性が当たり前のように得ているものを女性は得られない、もしくは捨ててこなければならない、っていう現実はまだあって。もちろん、逆に「男はつらいよ」的なこともたくさんあるんだと思うんですけど…。それに関して私があれこれ言うのはちょっと男性に失礼かなって気もします。

 ただ、歌を見てると、この人は女性である自分の人生を楽しみつつ、パートナーと対等で、夫婦別姓で、仕事も子育ても一緒にしていて、という軽やかさも伝わってきて、いいなって思います。

 

 なんかすごい複雑なのは、やっぱり野口あや子の歌

 

頑張ってる女の子とか辛いからわたしはマカロンみたいに生きる

 

にあったみたいに、「がんばってる女の子とか辛い」って思っちゃう自分もいるんだよな…。ていうか、私が「がんばっちゃう女」だから、自分で自分を痛いって思うことあるもん。そしてこの言葉、そういう意味ですごく共感するんだけど、どうしてそう思っちゃうのかな、って自分に悲しくもなる。がんばってる男の子は辛くないのにさ。

 多分やっぱり、「かわいくない」の呪いがまだあるんだなって気がします。「がんばってる女なんてかわいくないよ、もっと楽にしてにこにこして上手に甘えてたらよくしてもらえるよ」って。だけど、顔の美醜とは無関係に、誰か(男性)に「よくしてもらう」ことをにこにこして待ってるだけの人生なんて送れない女の子だってたくさんいるよね。そしたらやっぱり自分でがんばんなきゃないし。もしくは、どうしてがんばるの?がんばらなくてもできる範囲で適当にうまくやればいいじゃん、って思う人もいるだろうけど、だけどそれは男女の別なく、そういう生き方ができるかどうかは人によるって気がします。「選べる」かどうか、じゃなくて「できる」かどうか。それに、男の子だって、がんばりたくない、にこにこしてて誰かによくしてもらえたらいいのに、って思う人もいるんじゃないかなー。そういうの、女性にはむしろ推奨されるのに男性は「男らしくない」って認められなかったわけですし。

 前に『しくじり先生』って番組のでんじろう先生の回見てた時、大学院生時代に結婚して、奥さんが仕事してて自分は研究してて、みたいなエピソードを話した時に周囲が「ヒモじゃん」みたいな反応したの結構びっくり、というか受け入れがたくて。何か悪い?旦那が金にならないことやってて奥さんが稼いでて何か問題があるのか?夫婦の勝手じゃない?って思ったんですけど、そういう感覚って思っているよりも一般的ではないんでしょうか。

 

 『現代短歌最前線』読み直してて感じるのは、梅内美華子も江戸雪も大田美和も「君に寄りかからない」「君も寄りかからないで」ってスタンスで、でも大塚寅彦も大辻隆弘も荻原裕幸もなんとなく

 

それはだつて結局つまりうるさいな毎晩ちやんと抱いてるだらう (荻原裕幸)

 

って感じで、男女のスタンスに距離があるんですよね。女は自立したがってて、男は「まあそんなこと言っても結局は俺が稼ぐんだから」みたいなさ。一方今は、上にフェミニズムに関する(政治的)状況は20年前とそれほど変わっていないと感じる、と書きましたが、一般庶民の感覚で言うと、例えばborn after 1970の『桜前線開架宣言』を読んで感じるのは、男女ともに「疲れて寄りかかりたいけど寄りかかってほしくない…」みたいな感じになってきているような(笑)。そもそも代表作品に恋の歌がほとんどない歌人も多いし。だからこそ、薮内亮介の相聞歌にときめくんだなって思いました(笑)。今、2000年生まれの人が20歳くらいですけど、どんな恋の歌を詠むのかなぁ。特に男の子。Born After 2000見たいな(笑)。

 

 ちょっと話はずれるんですけど、男女の恋に対する立ち位置の移り変わりとか、そもそも恋そのものに興味があるのかどうか、っていう世代的な感覚について思いをはせていてふと思い出したことがあって。昔、俵万智の『あなたと読む恋の歌百首』という本を読んで、小池光の

 

壜の中さむき脳の彼生きて在りし日いかなる愛に苦しむ

 

という短歌にどきっとしたんですよね。その頃はもうヴァーチャルリアリティという概念も一般に知れ渡っていたし、この「脳」の人が生きていた時代の「愛」と今の時代の「愛」、それからこれからの「愛」って同じものだろうか、って考えた記憶があります。千年前、平安時代とかの歌に私たちは今でも共感できるけど、これからヴァーチャルリアリティがどんどん発達していったら、千年先の未来も人は恋に苦しむだろうか、って。こうやってほんの20年前の歌を読んでても、もしかしたらそこにある「愛の苦しみ」と今の「愛の苦しみ」は違う色をしているのかもしれないな、って気もします。いや、恋を求める気持ちに本質的な違いはない、とも思うんですが…。もし、例えば触れていなくても触れているように感じられて、目の前にいなくても見えるように感じられて、相手のbotが知的な会話をしてくれたら、好きな人の心を手に入れたいって苦しむことがあるんだろうか。

 

 

「出産で辞めるか」という問いのみが胸に残りし院試面接 (yuifall)

鏡ではなく本にこそ映し来し我は知のみに膝を折るべし (yuifall)