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「一首鑑賞」-202

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

202.何回も桜並木を迂回する告白を待つ少女のように

 (田中槐)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで魚村晋太郎が紹介していました。

sunagoya.com

 

 2通りの読み方をしました。1つは、ある場所を通るたびに、たくさんの人がいる桜並木を迂回して歩いてしまうという読み方。この場合、人気(ひとけ)のない方の道を選ぶ、というところに「告白を待つ少女」のニュアンスがあると思う。もう1つは、別に何も起こらないことが分かってるんだけど、でも何かあるような気がして、その場を立ち去れないみたいな読み方。この場合、何度も何度も桜並木を迂回しながら行ったり来たりしているイメージです。何かが起こるのを待っているところに、「告白を待つ少女」のニュアンスがある。

 

 鑑賞文だと、「桜並木」は人生の一場面として受け止められています。

 

けれど、一首からは例えば、人生の節目を迂回する、とか、その節目における祝福の機会をやり過ごすとか、何かの比喩の気配も感じられる。

(中略)

花のトンネルのような並木は、まるでタイム・トンネルのように見えるが、あったかも知れない人生なんて、ほんとうはどこにもなくて、人はひとつだけの人生を歩むしかない。

何回も迂回する、という表現には、そのことを知っている作者の回想の苦さがにじんでいる。

 

 つまり、人生において半ばわざと、華のない生き方を選んでしまう。今に至るまで何度も何度も。それを「告白を待つ少女のように」としているのは自嘲かもしれません。少女漫画的な、“日陰の私”を学校一のイケメンが攫いに来てくれるみたいな子供っぽい夢を捨てられないから、「桜並木」を迂回してしまうのだと。

 

 読み方に迷ったにも関わらず、最初に「ああ、分かる」って感じたのは多分こういうことなんだろうなって思います。つまり誰だって「桜並木」を歩いていないと思う瞬間はあって、だけどそんな自分に気付いてくれる人がいるはずだってどこかで思ってしまう気持ち、まあ今はないにしても若かりし頃は大なり小なりあるものなんじゃないのかなぁ。

 

 

現実にはない路地を思い出している5月のきみを連れ出しながら (yuifall)