いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌と洋楽和訳メインのブログで、海外ドラマ感想もあります

現代短歌最前線-坂井修一 感想5

北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

坂井修一⑤

 

 学問について、「それが何の役に立つのか」という問いを嫌悪する一方で、特に実学に関してはやはり何かの役には立たなくてはいけない、手段でなくてはいけない、とも思います。以前にも書いたのですが、学問そのものを目的とするという行為は、いわば学問を個人の知的好奇心を満たす手段にしているにすぎないと思うからです。それを超えて、社会全体の利益とする手段とするからには、やっぱり学問にはそれを裏打ちするイデオロギーが必要だと思う。

 ただ、自分でもこれをどう考えればいいか分からないのですが、自分のイデオロギーに反するからといって技術や思想を封印することには実はあまり意味はなくて、なぜかというと歴史的にはブレイクスルーというものはしばしば同時多発的に生じるので、個人が封印しても必ず、同時にどこかでその技術や思想は完成されてくるんだと思うんですよね。せめて、皆が自分のイデオロギーに対して自覚的である必要があるのかなと…。

 

 社会全体の利益、ということを考えたとき、勿論金銭を無視することは現実的には不可能です。お金がないと勉強だって研究だってできないし、お金を生まない学問は継続が難しいでしょう。でも、金銭はやはり手段であって目的にはなりえない。金銭は何かと交換できることを前提として初めて価値を有するものであって、それ自体を目的とするのは無意味だからです。だから、やっぱり根底にあるのは哲学であるべきだと思うんです。ただ、社会全体の利益という視点において、誰かと誰かの道徳や正義、イデオロギーが対立したときどうなるのか、という問いには自分の答えが出せていないです。絶対的な正しさなんてないだろうし、あったとしても私の想像の範疇を超えています。

 

 この人のエッセイを読んで頭に浮かんだ3冊の本があります。1冊目はやはり、マイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』です。現代哲学最前線(笑)でこの人の著作を無視することは不可能なんじゃないかな。

 

 2冊目はマイケル・ルイスの『フラッシュ・ボーイズ』で、これは金融市場における超高速取引にまつわるノンフィクションです。金融市場では、いわば超高速のインサイダー取引とでも言うべきスカルピングが横行していて、一部の人がお金を儲けて社会全体の利益の利益を損なっているという現実があります。この「一部の人」というのはスカルピング行為が可能な技術者や投資家でもある一方、プログラムを組んだ数学者、物理学者も含まれます。これを読んでいて、相反する感情が生まれたことを覚えています。まず、やはり世界を制するのは数学なんだな、という単純な驚嘆です。その一方で、このような頭脳、能力が「金を儲ける」という一種卑近な「手段」に過ぎないことに浪費されているのは一体正しいことなんだろうかとも考えました。坂井修一の

 

大量虐殺せよせよと二十世紀ありフォン・ブラウンありわれら末裔

 

の歌もそうですが、超高速取引のプログラマーフォン・ブラウンは単純に「速いプログラムを書きたい」「宇宙に行くロケットを作りたい」という、ある意味純粋な、一方で「私利」ともいえる動機に従って行動し、結果的に社会の利益を損なったり大量虐殺に加担したりしている。これが科学の目指す未来だろうか。

 

 もう1冊の本は、ブレイディみかこの『僕はイエローでホワイトでちょっとブルー』です。これは日本人(イエロー)である著者とアイルランド人(ホワイト)の夫の間に生まれた息子のイギリスの公立高校での生活を描いたエッセイです。主にホワイトプア層が通う荒れた公立中学で差別や貧困といった問題と向き合いながらも子供らしい屈託のなさで生活する男の子の姿が描かれているのですが、これらの本を読んで、人間の幸福というのはどこにあるのだろうと考えました。

 

 今、科学技術の発展によってAIが進化し、テクノロジーについていけない人間は仕事がなくなる、と言われています。今までのように実直に努力していればある程度の見返りがあった時代とは違い、親が金持ちか、ユニークな能力がないと生き残れないと。そんなもの、どちらか片方でも持っている人間がどのくらいいるんだろう?

 『フラッシュ・ボーイズ』では、飛びぬけた能力を持つ人たちがある意味他人を「出し抜いて」お金を稼ぐ様子を読みました。一方、『僕はイエローでホワイトでちょっとブルー』では、イギリスの田舎のいわば底辺校、「親の金」も「ユニークな能力」も持っていない人たちの現状を読みました。どちらになりたいのか、と言われると、どっちも積極的になりたいとは思わないのですが、でもやっぱり、仮に選べたとしても、自分は前者にはなれないと思う。仮に能力があったとしても、後者のような人たちから搾取してお金を稼ぐことになんの意味や喜びがあるのか分からないもん。次の世代の人間を育てるときに、AIに勝つ特異能力を身につけるのはいいとしても、その結果として他人を出し抜いてお金を稼いで生きていけ、みたいな教育はしたくない。

 だけど、「人をだましてもお金を稼ぎたい」って思わなくても、「美しくて早いプログラムを書きたい」「宇宙に行けるロケットを作りたい」って思った時、極貧の中で一人でやってて叶うのかっていうと、現実的にはお金を無視することは難しい。こういう葛藤って、何が正義なのか、何が幸福なのかということを問いかけてくる気がする。「宇宙に命を懸けたい」って願って大量殺戮兵器を産むことが幸福と言えるのか。自分はそうはなれないとは思うんだけど、否定できるわけでもないんです。「自分がやらなくても他の誰かがやっていた」というのも現実だと思うし、私のような、現実にはそんな能力も情熱もない人間がそれを否定できるのかって言われると本当に分からない。

 

 このエッセイでは

 

科学技術は人を幸福にするか。私のようなものは、これにイエスと答えるために一生をかけなくてはならないのだと思う。それが父の言う「本分」だと。技術者が技術そのものをとらえ直すことなしに、それはできない。そして、社会とか生活とかいうものをいつも問い直すことなしには、新しい技術のパラダイムを生むことはできないのである。

 

とあります。坂井修一は情報学の東大教授です。私と違って、現実に、技術に対する能力や情熱を持っている人なんでしょう。だからこそ、「私のようなものは、これにイエスと答えるために一生をかけなくてはならない」と書いている。科学技術の到達点は何なのか?目指す幸福とは何なのか?もちろん、個人が恒久的に幸福でいることはあり得ないわけですが、「科学技術が人を幸福にする」ことを目指すなら、時代や社会、生活の変化に伴って、幸福そのものの概念を問い直す必要があると思うんです。そこにはやっぱり自己を支える哲学や信仰がないと。

 信仰というのは、ここでは宗教と同じ意味で用いているわけではありません。私は多くの日本人と同様、無宗教のような仏教のような神道のような曖昧な立場ですが、でも、信仰っていうのは何か神聖なものを信じて教えを乞うということだと思う。

 

 私は、苦しいとき、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』、大岡昇平の『野火』、遠藤周作の『沈黙』『海と毒薬』を読み返します。とくに『夜と霧』を読むと、このような魂があることで救われるといつも感じます。それは多分、「イエスを信じて祈れば天国の門が開かれる」とか「自分で自分を救うことのできない悪人は祈ることで救われる(親鸞の「悪人正機説」です)」という発想に近いのかな、と思っています。自分はそういう澄んだ魂にはなれなくても、その魂の輝きにすがって祈ることで、その信仰に支えられることで道を誤らないでいられると。

 好きな海外ドラマgleeで、ゲイの男の子のたった一人の家族であるお父さんが倒れて危篤状態になって、友達みんなが「あなたのパパのために祈る」って励まそうとした時、「教会はゲイを拒絶する、僕は神を信じない、祈りなんて必要ない」って言った彼に対して、クリスチャンの女の子が「キリスト教の神を信じなくてもいい。でも目には見えない神聖なものを信じることは大切だよ。それがあんたを救ってくれるの」って話してあげるエピソードがすごく好きで。宗教の神様じゃなくていい、目には見えない神聖なものが救ってくれるんだ、って、私もそう思うよ。

 

 坂井修一の言う「新しい技術のパラダイム」とはそういうことなんじゃないかな。だから、この人はこのエッセイの最後にこう書いています。

 

 父にとって「わけのわからない歌」は、私の中のどこかでは、新しいパラダイムのための捨て石のようなものにならないだろうか。それははかない妄想に終わるかもしれないが、今の私にできる一つの現実的な試みではないかとも思うのである。

 

 この人にとって歌は祈りであって、科学者としての道筋を照らしているんだと思います。そして誰にでもそういう芯は必要なんだと私は思います。

 

 

幸福の影を踏みつつ天上のイデアのために生くるにあらず (yuifall)

 

 

現代短歌最前線-坂井修一 感想1 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想2 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想3 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想4 - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌タイムカプセル-坂井修一 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想4

北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

坂井修一④

 

みづからを流出させてあそばする液体ヘリウムが羨(とも)しくてならぬ

 

半球(ヘミスフィア) 子の脳葉をほつほつと照らしそめけむ<ことば>の星は

 

ブラックホールおのづから電波出すといふさやさやとながき恋のごときか

 

 前回語り過ぎたので今回は単純に好きなやつ集めてみた♡液体ヘリウムが羨ましかったり、子供の脳をことばの星が照らしてたり、ブラックホールが恋みたいだったり、言葉の使い方が可愛くて、詠み込まれている言葉は一貫してわりと硬い専門用語なのですが、使い方次第でこんなに印象変わるんだなーって思いました。今回それだけ(笑)。

 

 

チョコレートスフレ焼くごと慎重にannealingの温度定める (yuifall)

幸福を逆転写して増幅し分配するとインフレになる (yuifall)

 

 

現代短歌最前線-坂井修一 感想1 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想2 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想3 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想5 - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌タイムカプセル-坂井修一 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想3

北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

坂井修一③

 

科学者も科学も人をほろぼさぬ十九世紀をわが嘲笑す

 

 この読みは私にはかなり難解なんですが、最初は何で十九世紀なんだろう?って思ってたんですよ。科学が人を滅ぼすとしたら二十世紀じゃないの、って。でも、十九世紀が「科学の世紀」と言われていて、学問としての科学が確立した世紀だからなのかな。

 前々回紹介した

 

滅びざる種はあらざれば人心は科学に劣ると思ひし部屋よ

 

をちょっと連想させる感じで、私が思うに、つまり、本当は、科学という学問は人を滅ぼすポテンシャルがあるのかなぁって。だけど、「人心は科学に劣る」にも関わらず、「科学者も科学も人をほろぼさぬ」から「嘲笑」するのかなって。「科学」、そして「マテリアリズム」は、どこかで「人心」「たましひ」と折り合いをつけていかなくちゃならないし、以前も書いたように、「人心」は「倫理」だけじゃなく、見たいものしか見ない、という意思でもあるから。だけど「学問」としての「科学」のポテンシャルは、それが何世紀の学問であっても、「人心」によって押さえつけられていることには変わりないだろうし、「人心は科学に劣る」と言いながら「人をほろぼさぬ十九世紀をわが嘲笑す」というのはどういうことなんだろうなー。

 でも、この歌は色んな読み方ができそうな気もします。「科学の世紀」として体系的な学問としての科学が整備されたにも関わらず、人をほろぼせないのなら、それまでの呪術的な(「錬金術」みたいな)技術とどれほど違うんだ、という意味合いでの嘲笑。あるいは、十九世紀は現代や二十世紀と比べたらある意味「倫理」との折り合いという意味合いではもっと自由だったはず。それなのに「人をほろぼさなかった」のは、単純に技術的にそのレベルまで達せなかったことへの「嘲笑」とも取れます。逆に、宗教的イデオロギーなどに押さえつけられて「人心」を上回れなかったことへの嘲笑なのかもしれない。もしくは、「科学の世紀」十九世紀を経て大量殺戮の二十世紀が到来し、人は十九世紀に滅びておくべきだった、ということなのかも。二十一世紀はこの流れで行くと人工知能の世紀なのかな?

 

 ちなみに『短歌タイムカプセル』の解説では

 

現代に比べると、十九世紀の研究は、人類を滅ぼすような大規模なものではなかった。そのことを「嘲笑」しながら、歌人は、科学が今後も人類の幸福に寄り添い続けることを祈っているのだ。

 

 『現代短歌最前線』の解説には

 

 <科学者も科学も人をほろぼすことのなかった>十九世紀を称えるのかと思ったらさにあらず、<十九世紀の科学と科学者を嘲笑する>と。逆説表現なのであろうか。わたしには分かりにくい歌である。

 十九世紀の歌を受けて、では、進歩の著しかった二十世紀をこの科学者は賛美するのであろうか?

 

とあります。まあー、以前にも書いたような『世にも奇妙な人体実験の歴史』(トレヴァー・ノートン)とか『世にも危険な医療の世界史』(リディア・ケイン、ネイト・ピーダーセン)とか読んでると笑えるのでそれを「嘲笑」と呼んでもいいのかもしれませんが、しかしながら現代の科学も未来からしてみれば多分笑えるレベルであろうと思いますし、そんな単純なことを言っているわけではないような気がします(笑)。

 

大量虐殺せよせよと二十世紀ありフォン・ブラウンありわれら末裔

 

優生学(ユーゼニクス)的愛恋といふ造語笑ひつつすぐす夜もゆるすべし

 

 このあたり読むとどうしても笠井潔の『哲学者の密室』連想するな…。大量殺戮による死vs特権的な死の哲学についてを巡るミステリーなのですが、作中では「ハルバッハ」という名前で登場するけどハイデガーのことで、ハイデガーの『存在と時間』に対する議論が展開されています。以下引用ですが、

 

 ハルバッハは瞬間的な、点のような死を想定した。死とは、一種のターニング・ポイントなんです。死の可能性に先駆し、将来の死をターニング・ポイントとして現在にたち戻る。それが人間に本来的な生き方を可能にさせる。けれども死が、もしも瞬間的なものでないのだとしたら、ターニング・ポイントのポイント性が失われてしまう。死は本来的自己を可能とするだろう、特製の折り返し点ではなくなる。人間が、死の可能性に先駆しようとしても、その死は、はじまりも終わりもない不気味な過程なのだから、それから折り返して現在に立ちもどることなど不可能だ。泥沼のように輪郭のない、おぞましい、はじめも終わりもない死に足をとられて、先駆する意思は無様に横倒しになる。そして沼地の底に、ずるずると呑み込まれてしまう。実存的な本来性は宙に浮き、ハルバッハ哲学は土台から崩壊せざるをえない。

 

 (めっちゃ中略)

 

 第一次大戦は人類の歴史はじめての、未曽有の殺戮戦争だった。産業廃棄物さながらの無名の死者の山は、第一次大戦の過酷な塹壕戦において、もう経験されていたんだ。その結果として、ワイマール時代の空疎な繁栄の時代が生じた。ハルバッハが嫌悪した大量消費社会さ。だがワイマール時代の無意味な生は、第一次大戦の無意味な死の陰画でしかない。それは現代の病院における生死と、克明に対応したものだね。病院では、さしあたり凡庸な生が強制される。名前のない生だ。誰にも平等に同じ治療がなされる時、そのようにして保証された患者の生は、既に固有の人格を奪われている。治療の甲斐なしに患者が死ぬ。その死もまた同じことだろう。

 ハルバッハは、ワイマール時代の大衆社会を嫌悪したのではない。むしろ、それを恐怖したんだ。嫌悪にはまだ、心理的な余裕のようなものがある。恐怖する人間には、そんなゆとりがない。なぜなら、ラジオや週刊誌や映画のディートリッヒの半裸体に陶然としている大衆、生きながら死んでいるような大衆は、それ自体として無意味な大量死の裏返しなんだから。第一次世界大戦の死者は死にながら生きている。そしてワイマール時代の生者は、生きながら死んでいた。その圧倒的な恐怖から、むしろ魂を脅かす戦慄的な不気味さから逃れようとして、ハルバッハの死の哲学が紡ぎだされた。本来的実存を覚醒させる特権的な死とは、二十世紀的に無意味な生と死の必然性を隠蔽しなければならぬ、そうしなければ人間は泥人形にまで転落してしまうという、哲学者の悲鳴の産物なんだ。

 第一次大戦の大量殺戮を隠蔽しようとして、ハルバッハの死の哲学が生じた。そしてそれが、逆説的にも第二次大戦の大量死の哲学として機能してしまう。おのれが生み出した物体の山も同然である膨大な死の堆積に直面して、ハルバッハ哲学は最終的に空中分解を遂げた。第一次大戦の経験がもたらした死の無意味性から、なんとか意味ある死を救出しようとして、ハルバッハは死の哲学を考案した。それなのに彼の哲学は、さらに大量の無意味な死に帰結したんだ。

 

 引用終わり。

 

 「科学者も科学も人をほろぼさぬ十九世紀」から、二十世紀になって大量殺戮の時代が到来しました。「匿名の死」という現象は、分からないではないです。『桜前線開架宣言』で取り上げられていた若手歌人たちの多くが、ちょっと離人的というか、自分の人生とすら距離がある感じ、自分は名もない生を生きて匿名で死ぬ、という思想が根底に流れているのを感じる歌を詠んでいました。だけど誰もessentiallyにだけ生きることはできないように、本来的な生を生きられない人も実際にはいないんじゃないかなという気もしてます。

 まー、私は実際には『存在と時間』を読んだことはないので(笑)、ハイデガー哲学についてここで論じるつもりではないです。。ただ、人の生死を「匿名」と考えるか「特権」と考えるかはいわばマクロ的に見るかミクロ的に見るかの違いに過ぎず、大量殺戮や「マス」といった概念の確立によってマクロ的な見方が可視化され、現象として表出したに過ぎないのではないかと思っています。

 

 フォン・ブラウンはロケットを作ることに命を懸けて、そのために「悪魔に魂を売り渡した」と言われた科学者です。宇宙ロケット開発は同時にミサイル開発にもなったから。人をほろぼすのは「科学」や「科学者」ではないのかもしれない。「大量虐殺せよ」というのはフォン・ブラウンではないよね、多分。でも、じゃあ科学者は開発した技術に責任がないのか、という倫理的な問題になると、やっぱり、ないとは言えないのではないだろうか。おそらく最先端の研究者の中には、倫理を突き抜けて学問を追及したいと願う究極的な瞬間を体験したことがある人もいるのではないかなと思ったりもします。単純で純粋なまじりけのない学問として。だけど、「純粋に学問を追求する」というのは言い換えると「学問を自分の知的好奇心を満たす手段とする」という非常に卑近な動機に過ぎないし、数学や文学、哲学(も、人を殺せますが)と違って科学のほとんどの分野はいわゆる「実学」だから、やっぱり「手段」とせざるを得ない面はあるのかなって。現実的にはどこから何の目的で金が出てるのかって問題もあるし。そこで「人心」との折り合いというか、科学は何のためにあるのか、という個人のイデオロギーが立ちはだかるのかなと思っています。自分を支える哲学がないといけないって。

 ある研究者の講演を聞いていて、「この分野の研究で予算を出してもらえるのは国内では防衛省だけだが、そこからお金をもらって研究するのは色んな制約がある」というような話をしていて、まあその研究の成果が実際に防衛省でどう利用されるのかということはともかく、どこからお金が出て研究成果をどう使われるのか、ということに自覚的であることはいち研究者として可能なわけなので。

 

 だから、この人が科学者でありながら歌人でもあるのって、そういう折り合いのつけ方なのかなって。「科学は人を幸福にするか」という命題に対する一つの向き合い方なのかなって思ってます。科学、宗教(自分なりの神聖な何かに対する信仰)、哲学は複雑に折り重なって人間の根幹をなしているのではないかと考えています。

 

 

学問をtool(道具)と見做す寂しさを思へどmethod(手段)であれと願へり (yuifall)

実学はシビアであればプライドと誇りの差分を測りてをりぬ (yuifall)

 

 

現代短歌最前線-坂井修一 感想1 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想2 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想4 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想5 - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌タイムカプセル-坂井修一 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想2

北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

坂井修一②

 

山上に耶蘇ありし日を忘れざれど死すべきものを恐れやまざり

 

 この短歌を読んで、 mortal という英単語が脳裏をよぎりました。

 この単語、初めて見たとき衝撃だったんですよね。「死すべき運命の」とか「致死の」という意味の単語なのですが、同時に「人間の」という意味もあります。例えばWeblio英和を引くと、 Mortals can't create a perfect society. で「人間は完璧な社会など作れない」という例文が出てきます。「死ぬ運命」=「人間」なんだ、そんな単語があるんだ、っていうのすごく驚いて、なのでこの歌の「死すべきもの」っていうのは「人間」ってことなのかな、って勝手に思っています。

 

命ふかき鶏卵をわれは打ちて捨つ無言なるものなべて許さず

 

 これも命に関する一首です。鶏卵って無言なのかしら。そしてなぜ許さないのか?生きたかったら自己主張しろ!ってこと?読みがちょっと難しいなぁ。自分でもどうしてこの歌が目に留まったのか分からないというか説明できないのですが、なんかぐっときました。こういう感想ってどうなんだ(笑)。誰かに解釈を教えてほしい深層心理かも。

 坂原八津の

 

いのちとはいえないたまご朝毎にいのちのように割られて落ちる

 

を思い出しました。鶏卵は「命ふかき」なのか「いのちとはいえない」のか?有精卵か無精卵かみたいな問題もありますけど、これは個人の感じ方の問題な気もします。

 

 そういえばシカゴの博物館かどこかで孵化直前の卵がたくさん展示してあってそこからひよこが産まれる様子を観察できるコーナーがあったような。。残念ながら孵化する瞬間は見られなかったのですが、ひよこはかわいかったです(笑)。

 そういうの見てると、いのちはどこからいのちなんだろう、って思いますよね。核酸を持たないプリオン蛋白は生物か?とか。そういえば森博嗣のなんかの小説で「おきあがりこぼしは生物か?」みたいな命題あった気がするなー。さっきから曖昧なことばっかり書いてて申し訳ない。

 

神託をまげゆくはひとのつねなれどことばは明日の血をさそふかな

 

 これはすごいAIを連想しました。なんというか、ちょっとSFの世界なんですけど、「タイムマシンで過去に戻って過去を変えることはできるのか」的なさ。それがAIの未来予測で、このままいくと未来はこうなる→だから今こう変える、みたいなことが現実に可能になってきていて、そうするとまたシミュレーション上の未来が変わるから→それなら今はこうする、みたいな無限フィードバックがかかって…っていう連想です。それ、「神託をまげて明日の血をさそふ」ってことにならないかな。

 でも「明日の血をさそふ」のは「ことば」なんですよね。いや、でも私は(現時点での)AIってやっぱり開発者(ひと)のバイアス、「ことば」を増幅すると思ってる。そして「明日の血をさそふ」んだって。

 

 

息ひとつ吐けばその分死は近し風鈴の舌まわるくるくる (yuifal)

 

 

現代短歌最前線-坂井修一 感想1 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想3 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想4 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想5 - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌タイムカプセル-坂井修一 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想1

北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

坂井修一

 

あわだちて物質主義(マテリアリズム)の淵にゐしたましひのこといかに記さむ

 

 この本(『現代短歌最前線』)はずっと前から読んでいて、でもその頃はこの人の歌というとやっぱり「タカアシガニ」のやつが強烈に印象に残っていたのですが、こうやって今読んでみると科学者としての目線と歌人としての目線が交差するような歌に心惹かれます。

 

 「物質主義」というのは「物欲」的な意味合いなのかな。でも私は、「たましひ」は「マテリアリズム」だけでは生きられないと思うんだ。『ぼくの短歌ノート』の感想でも同じようなこと書いたのですが、やっぱり飢えて死にそうな時でも歌を歌うのが人間なのかなと思ってます。

ぼくの短歌ノート-「美のメカニズム」 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

 まあ、「たましひ」も「物質」であるという「唯物論」的なマテリアリズムと読めなくもないですね。精神は肉体によってある程度規定されるし、脳も神経組織も全て「物質」であることは事実ですし…。以前にも書きましたが、小池光の

 

壜の中さむき脳(なづき)の彼生きて在りし日いかなる愛に苦しむ

 

という短歌がすごく好きで、多分究極的には脳だけでも生きてはいけるのかもしれないし、脳に与える電気信号だけであらゆる感覚を追体験できるのかもしれないけど、でもやっぱり肉体があってこそ「生きて在りし日愛に苦しむ」のかなって。

 だけどこの歌は「たましひ」=非物質が「物質主義の淵にゐる」んだから、魂が死ぬ瀬戸際みたいな意味合いかもしれないってちょっと思いました。うーん、それにしても「あわだちて」が分からないな。これは(火サスみたいな)崖っぷちの下で波が立つみたいな意味合いでの「泡立つ」かと思っていたのですけど、普通に考えると「粟立つ」なのかもしれないですね。物質主義に殺される恐怖で粟立つ魂なのかも。

 

滅びざる種はあらざれば人心は科学に劣ると思ひし部屋よ

 

 この「人心は科学に劣る」ってどういう意味なんだろうなー。「人心」=倫理は、「科学」を越えられない、ということでしょうが、「科学」によって象徴されるのが「事実」なのか、「技術」なのか「理論」なのかそれとも全く別の何かなのか…。(絶滅危惧種みたいな生き物が、あるいは人間が)滅ぶのを(気持ちで)止めようとしたって無駄だよ、ってことなのか?

 これは、人も滅ぶべき種の一つ、という意味合いかな。もしくは人が動植物の多数の種を滅亡させているということなのかな。それとも「人生は短く学問は長し」的な意味なのかな。あるいは科学技術がいずれ人間の能力を上回るとか。

 

 私は基本的には科学は希望だと思っています。希望への祈りだと。ただ、もし科学技術が歴史の時間を早めるだけの存在であれば、その先には滅亡しかないのかなって気もします。

 ですけど、「人心は科学に劣る」とは思わないんですよねー。てか、「科学」は「人心」に踊らされる存在に過ぎないと思う。

 これからAIが人間の知能を凌駕するって言われていて、技術的にはそうかもしれないけど、「知能」にはイデオロギーに依存した技術の方向性も含まれますよね?ベースとなる作り手の意図を超えることなんて可能なんだろうか?

 過去の天動説vs地動説やダーウィンの進化論を巡る論争が証明しているように、「人心」に合致しない事実は捻じ曲げられるし、実際に男性優位のキリスト教世界では女性生殖器系の構造や機能に関して、男性に都合の悪い事実が300年以上も無視されてきたことも知られています。結局「科学」は「人心」のためにあって、研究によってある一つの結果が導き出されたとしても、個人の宗教や文化、セクシャリティイデオロギーだけじゃなく、どこから研究のためのお金が出るか、といったスポンサーの意向によっても事実の解釈は大きく変わり得ます。

 ですが、そのことにこの人が無自覚であったとは思えない。だから、私は「人心は科学に劣る」という言葉でこの人が何を言おうとしているんだろう、って考えるんですが、分かりません。

 

コンピューター終(つひ)の徒労と言ふわれは異教徒ならぬ研究室(ラボ)を出できつ

 

 「異教徒」という表現が面白いなと思いました。当事者からすれば面白いでは済まないのかもしれませんが…。「コンピューター教」みたいに盲目的になっている他の研究員の中で、自分だけが「コンピューターなど徒労である」と思っていて、それはまるで「異教徒」のようだと。「研究室」にいるんだから、それはおそらく技術上の対立だったのかもしれないですが、技術が何をもたらすべきか、あるいは何を目的とした技術であるべきか、という点を突き詰めるとそれは思想上の対立となり得るし、宗教上の対立のような相容れなさがあるのかもしれません。ここでも「人心」が「科学」を凌駕しているのではないだろうか?

 末尾のエッセイを読むと、コンピューターは未だに人間を幸福にしていない、という意味合いでの「徒労」なのかなって思いました。何のためのコンピューターなんだ、という。

 

 この人の歌を読んでいて感じるのは、科学技術の発展に対するアイロニーと使命感です。末尾のエッセイには、

 

科学技術は人を幸福にするか。私のようなものは、これにイエスと答えるために一生をかけなくてはならないのだと思う。

 

と書いています。この人は「科学技術は人を幸福にするためのものだ」って信じている。でも、科学技術は戦争やそれに伴う殺戮と共に発展してきた現実もあり、そのギャップから「人心は科学に劣る」「コンピューター終の徒労」「十九世紀をわが嘲笑す」「大量虐殺せよせよと二十世紀あり」っていう歌が生まれるのかなって。

 

 こういう歌、昔は意識しなかったのですが、今読むと(分からないのに)胸に響きます。また時間たってから読んだら分かるようになる日が来るんだろうか。

 トレヴァー・ノートンの『世にも奇妙な人体実験の歴史』とかリディア・ケイン、ネイト・ピーダーセンの『世にも危険な医療の世界史』とか気持ち悪いけど面白くて、でも多分今の「科学」も未来からすると気持ち悪いけど笑える、みたいな感じなんだろうなーって思いました。

 

 

肉は消え声のみ残る脳だけがきみの眠りを妨げられる (yuifall)

 

 

現代短歌最前線-坂井修一 感想2 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想3 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想4 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-坂井修一 感想5 - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌タイムカプセル-坂井修一 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

Telephone (Lady Gaga feat. Beyonce) 和訳

洋楽和訳の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

Telephone (Lady Gaga feat. Beyonce)

作詞:LADY GAGA, R. JERKINS, LASHAWN DANIELS, LAZONATE FRANKLIN, BEYONCE

作曲:LADY GAGA, R. JERKINS, LASHAWN DANIELS, LAZONATE FRANKLIN, BEYONCE

www.youtube.com

Hello, hello, baby, you called?

I can’t hear a thing

I have got no service

In the club, you say? say?

Wha-wha-what did you say, huh?

You’re breakin’ up on me

Sorry I cannot hear you

I’m kinda busy

Kinda busy

Kinda busy

Sorry I cannot hear you I’m kinda busy

 

Just a second

It’s my favorite song they’re gonna play

And I cannot text you with a drink in my hand, eh?

You should’ve made some plans with me

You knew that I was free

And now you won’t stop calling me

I’m kinda busy

 

Stop callin’

Stop callin’

I don’t wanna think anymore

I left my head and my heart on the dancefloor

Stop callin’

Stop callin’

I don’t wanna talk anymore

I left my head and my heart on the dancefloor

 

Stop telephonin’ me

(Stop telephonin’ me)

I’m busy

(I’m busy)

Stop telephonin’ me

(Stop telephonin’ me)

Can call all you want but there’s no one home

And you’re not gonna reach my telephone

Out in the club

And I’m sipping that bubb

And you’re not gonna reach my telephone

Call all you want, but there’s no one home

And you’re not gonna reach my telephone

Out in the club

And I’m sipping that bubb

And you’re not gonna reach my telephone

 

Boy, the way you blowing up my phone

Won’t make me leave no faster

Put my coat on faster

Leave my girls no faster

I should’ve left my phone at home

‘Cause this is a disaster

Calling like a collector

Sorry, I cannot answer

 

Not that I don’t like you

I’m just at a party

And I am sick and tired of my phone r-ringing

 

Sometimes I feel like I live in grand central station

Tonight I’m not takin’ no calls

‘Cause I’ll be dancin’

I’ll be dancin’

I’ll be dancin’

Tonight I’m not takin’ no calls

‘Cause I’ll be dancin’

 

My telephone

Ma ma ma telephone

‘Cause I’m out in the club

And I’m sippin that bubb

And you’re not gonna reach my telephone

 

 (We’re sorry, we’re sorry

The number you have reached

Is not in service at this time

Please check the number, or try your call again)

 

 

直訳

 

Hello, hello, baby, you called?                           

もしもし、ベイビー、電話した?

I can’t hear a thing

聞こえないわよ

I have got no service

出られないの

In the club, you say? say?

クラブにいるから、何か言った?

Wha-wha-what did you say, huh?

あなた何て言ったの?

You’re breakin’ up on me

あなた私と別れるつもりね

Sorry I cannot hear you

ごめん、全然聞こえないの

I’m kinda busy

電波悪いみたい

Kinda busy

つながらないの

Sorry I cannot hear you I’m kinda busy

ごめん、電波悪くて全然聞こえない

 

Just a second

待って

It’s my favorite song they’re gonna play

これからかかるのは私の好きな曲よ

And I cannot text you with a drink in my hand, eh?

手に酒を持ってるんだからメールも送れないの

You should’ve made some plans with me

私と一緒にいる計画を立てるべきだったわね

You knew that I was free

私が暇だったこと知ってたでしょ

And now you won’t stop calling me

今は私に電話するのをやめるつもりがないのね

I’m kinda busy

私忙しいのよ

 

Stop callin’

電話をやめて

I don’t wanna think anymore

これ以上考えたくない

I left my head and my heart on the dancefloor

私の頭も心もダンスフロアに置いてきた

 

Stop telephonin’ me

電話をやめて

I’m busy

繋がらないわよ

Can call all you want but there’s no one home

電話したかったらすればいいけど、誰も家にはいないわ

And you’re not gonna reach my telephone

それにあなたは私の電話につなぐことはできない

Out in the club

クラブは圏外

And I’m sipping that bubb

それに私は今シャンパン飲んで騒いでるの

And you’re not gonna reach my telephone

それにあなたは私の電話につなぐことはできない

 

Boy, the way you blowing up my phone

ねえ、あなたが私の電話を破裂させるやり方

Won’t make me leave no faster

それは私を早く去らせたりはしないわ

Put my coat on faster

私はコートを早く着たりしない

Leave my girls no faster

友達のもとを早く去ったりしない

I should’ve left my phone at home

電話は家に置いてくるべきだった

‘Cause this is a disaster

だってこれって大惨事

Calling like a collector

取り立て人みたいにかけてきて

Sorry, I cannot answer

ごめん、出られないわ

 

Not that I don’t like you

あなたを嫌いなわけじゃないの

I’m just at a party

ただ今パーティにいるの

And I am sick and tired of my phone r-ringing

そして電話が鳴ってるのにイライラしてうんざりしてるわ

 

Sometimes I feel like I live in grand central station

ときどきまるでグランドセントラル駅に住んでるような気になるわ

Tonight I’m not takin’ no calls

今夜はどの電話も取らないわ                         

‘Cause I’ll be dancin’

だって私は踊るの

 

My telephone

私の電話

‘Cause I’m out in the club

クラブでは圏外

And I’m sippin that bubb

シャンパン飲んで騒いでる

And you’re not gonna reach my telephone

電話は繋がらない

 

 (We’re sorry, we’re sorry

申し訳ございません

The number you have reached

あなたのおかけになった電話は

Is not in service at this time

今はサービスの圏外です

Please check the number, or try your call again)

番号を確かめるか、もう一度おかけ直しください

 

 

*sipping that bubbはこの歌で有名になった表現らしく、bubbはbubble、つまり「泡」ってことで、シャンパンの意味らしいです。sipは「すする」ですが、お酒を飲むというよりもシャンパン片手にどんちゃん騒ぎ、といったイメージみたい。

*MV、なんかすごいですね。『ミレニアム5』(ダヴィド・ラーゲルクランツ)の舞台が女子刑務所で、男子刑務所と比べるとそんなヤバいイメージなかったのでどんな感じなんだろう…とか思ってたけどこのMV見てたらマジヤバいと思いました(笑)。てか、アジア人とそもそも体型が違いすぎるし!途中のレストランのシーンで唐突に「ワンピース!」とか入るけど何なんだ(笑)。漫画のワンピースのことらしいですが全然意味が分からん。

 

glee S2の冒頭でレイチェルとサンシャインがデュエットする曲です。サンシャイン、あんなに小柄なのに歌の迫力すごくてびっくりしました。元の曲がLady Gagaだってこと知らなかった…。しかもビヨンセと一緒に歌ってるのか…。豪華だな。

*最近オタク感ゼロの美容系の友達と海外ドラマの話してて、さりげなーく「昔のドラマだけどglee好きなんだよねー」とか言ったら、「Lady Gagaとかよかったよね!」ってなって、腐女子目線抜きだとそういう感じの感想になるのね♡って思いました(笑)。「だよね!」って言っといた(笑)。

 

www.youtube.com

yuifall.hatenablog.com

 

意訳

 

もしもし?もしもし?

あなた電話くれた?

え、何言ってるの?

聞こえないの、クラブにいるのよ

何か言った?

あなた何て言ったの?

別れようって?

ごめん、全然聞こえない

電波悪いみたい

繋がらないわ

ごめん、電波悪くて全然聞こえない

 

あ、待って

これから好きな曲がかかるの

メールなんて無理よ、お酒で手が塞がってるわ

一緒に来ればよかったのに

ヒマだったって知ってたでしょ

今は電話やめてよ

忙しいんだって

 

電話をやめて、ほんと切るわよ

これ以上難しいこと考えさせないで

クラブにいるんだから

電話をやめて、ほんと切るわよ

これ以上考えさせないで

フロアに浸っていたいのよ

 

電話やめてよ、繋がらないし

まあ好きなだけかけてみれば?

家には誰もいないし

繋がらないわよ、圏外だもん

シャンパン飲んで騒いでんの

繋がらないってば

 

どんなに電話鳴らしたって

早く帰ったりしないわよ

コートも着ないし、友達にさよならもしない

携帯置いてくればよかった

ほんと最悪よ

取り立て屋みたいにしつこい電話

まあいいわ、出られないもん

 

嫌いになったわけじゃないのよ

だけど今はパーティしてるの

着信音にはほんとうんざり

 

ランドセントラル駅に住んでるみたいに

ひっきりなしにベルが鳴ってる

もう電話取るのやめるわ

だってこれから踊るの

踊って踊って踊りまくるわ

電話なんて全部無視

 

電話が鳴ってる

出ないわよ、クラブは圏外

シャンパン飲んで騒いでる

電話なんて繋がらない

 

(申し訳ございません。おかけになった電話は、現在電波の届かないところにあるか、

電源が入っていないため、かかりません。

番号をお確かめの上、もう一度おかけ直しください)

 

 

yuifall.hatenablog.com

現代短歌最前線-小島ゆかり 感想5

北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

小島ゆかり

 

 この人は末尾のコーナーで随筆という形で自分について語るのではなく、寺山修司論を書いているのですが、それがとても面白かったです。面白いというか、興味深いという言い方の方が正しいかもしれません。

 寺山修司について三点の謎を挙げて論じる内容です。これらは、いずれも(非常におこがましいかもしれないのですが)私自身の創作の問題とも響き合う形で理解でき、そして私でさえもそうだということは「短歌」という形式で表現することを選んだ歌人みな、そういう感覚を一種共有しているのかもしれないと考えました。

 

 まず一点目は、彼がなぜ文芸への出発点で短詩型を選んだのか、という問題です。小島ゆかりは、それについて(一部抜粋)

 

(作品を発表し始めた時の寺山修司は十五歳であり、)彼はあまりにも年少であった。年少であったからこそ、不定型の散文では表現できなかったのではないか。あらかじめ形式が与えられている俳句や短歌に、あえてそこに思いを込めていくことによってはじめて表現ということが可能だったのではないか。

 

と書いています。これはすごく自分も分かる感覚で、ある程度表現型に規制がないと表現できない時ってあるんだよな…。というか、散文を定型に納める過程で自分の生の言葉と距離が取れるので、便利だなと思います。

 まあでも短歌作れない時は全然だめで、31文字なんてまぢむり。ってなる(笑)。このブログ読んでくださっている方(特にgleeの感想を読んでくださった方)なら分かるかと思うのですが、私の表現ってもともと言葉多くなりがちで説明的でくどいし。だからこそ定型の規制はありがたいなって思うんですけど。寺山修司も、自分の表現の形式にある程度の規制が欲しかった時と、それをはみ出して広がって行った時期があったのかなと思いました。

 

 ちなみに北村薫の『北村薫のうた合わせ百人一首』という本の解説で三浦しをんが「自分は散文脳だから定型の読みがうまくない。短歌や俳句に加えて詩や小説も書ける人はもともと短歌や俳句から出発した人じゃないか」みたいな内容のことを書いていましたが、寺山修司はそのタイプですね。逆の、基本的には散文脳だけど短歌でも名を成してますみたいな人もいるのかもしれませんが、ぱっと思い浮かびません。両方作ったことある人はたくさんいるでしょうけど、両方世に認められるのはかなり高いハードルですね。

 

 二点目は、パロディの問題です。

 

これも彼が年少の表現者であったことと関わりがあるだろう。私たちはふだん歌を作るときに、心が先にあって、そこから何か言葉を見つけて歌を作るというふうに考えがちだけれど、本当にそうだろうか、もちろん、もっとも幸福なプロセスとしてそういう場合もあるが、多くの場合は、むしろ先に言葉と出会うのではないか。(中略)あらかじめ私たちの前にある言葉、古典や近現代の先人たちの作品に出会うことによって、出会わなければ発見できなかった心をそこに発見し、自分自身の表現として作り上げていくことができるのではないだろうか。本歌取りや題詠はその典型であり(後略)

 

と書かれています。これも、すごく、分かる。自分が、他の人の作品を読んでいて、ああ、この気持ち分かる…、私ならこうだな…、っていうパターンの創作ですもん…。まあこのブログ自体がそうなんですけど。基本全ての作品が二次創作なんですけど。

 

 寺山修司の場合は、カルチャーとサブカルチャーっていう二項対立もあったのではないかなと想像します。ここでは「マイノリティ文化」という意味ではなく、「日本のサブカル」という文脈でサブカルチャーという言葉を使いますが、ハイカルチャーは基本的には受け手側の教養やある程度の知識的素養を求めていて、寺山修司はそれを知った上でパロディ化することによって、どっちかというとオタク的な意識の共有というか、「分かるwww」っていう感覚に近いアングラカルチャー、サブカルチャーを生み出したのかな、と思いました。

 

 山田風太郎の『人間臨終図鑑』の寺山修司の項目では、

 

 寺山は「天才」にちがいなかったが、活動があまり多方面に散乱していたために、死後すぐに、それらの影響力はたちまち消えるだろう、せめて残るのは、彼が十八歳のときに作った、「マッチ擦るつかのま 海に霧ふかし 身捨るほどの祖国はありや」以下一連の『チェホフ祭』と題する短歌だけだろうと評された(ただしこれも、他人の俳句を短歌にアレンジした剽窃歌集であるが)。果たして如何。

 

と書かれています。これを「剽窃」ととるか、「パロディ」ととるか、「本歌取り」ととるかは難しい問題ですね。「二次創作」かもしれない(笑)。

関川夏央 『現代短歌 そのこころみ』 感想① - いろいろ感想を書いてみるブログ

関川夏央 『現代短歌 そのこころみ』 感想② - いろいろ感想を書いてみるブログ

 しかし、短歌という文学形式そのものが、基本的に他人と表現がまったくかぶらないということはないのではないかと思っていて、その過去の表現からの積み重ねの面白さなんじゃないかな。

 

 吉川宏志が結社「塔」のインタビューで

吉川宏志インタビュー 「見えないものを見つめるために」 | 塔短歌会

 

(木下龍也の)この〈自販機のひかりまみれのカゲロウが喉の渇きを癒せずにいる〉は、「光まみれ」という表現に結構先例があるんですよね。やっぱり短歌っていうのはそういう先蹤というか過去の蓄積の問題があって、過去の歌を知ってるかどうかによって印象は随分違うんですね。だから、初めて現代短歌を見た人にとってこれはすごいなという歌があっても、短歌を長くやってる人だと、ああこれは過去にもあったなということがあります。歌会でもよくありますよね。だから、それはやっぱり伝統詩の面白さですね。過去の時間を知っている人の方が読み手としてはやっぱり強い。

 

と言っていて、知るか知らないかはともかく「ことば」は過去にもあって、それを知っていて使うか、あるいは知らずに使うか、それも含めて自分の表現かなって思いました。

 

 全然関係ないですけど、「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし」じゃなくて「マッチ擦るつかのま 海に霧ふかし」の切り方いいなってどきどきしてしまった。もともとの記載がこうなんだろうか。過去に文字空けせず引用していましたが申し訳なくなりました。

 

 三点目は、短詩型から(詩や散文ではなく)映画や演劇に向かっていった彼の表現の問題です。私は、これこそが彼を天才たらしめる所以かな、と思ってます。短歌の形式で何かを作ること、あるいはパロディ的表現は誰にでも(私でも)クオリティを問わなければある程度可能ですが、この「卓抜な構図と映像化によって、<虚構のわたし>を作り出す」表現は他の人にはできなかったと思うから。それについて、小島ゆかりは具体的な短歌の例を挙げて論じています。まあ詳細な内容については本を買って読んでいただきたいんですけど(笑)、寺山修司

 

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

 

という超有名短歌の解釈がすごく面白かったです。単純に読めば、「海を知らない」少女に「自分」が両手を広げ、こんなに広いんだよ、って教えてあげる場面が想像されますが、これについて

 

この歌にはもう一つ興味深い解釈がある。少女はまだ海を知らないけれど、もし彼女が海を知ってしまったら、海の圧倒的な魅力の前で、少年の存在はたちまち小さなつまらないものになってしまう。だから少年は少女に海を見せないために両手を広げて通せんぼする、というのである。

 

とあって、めちゃくちゃ面白いなと思いました。この場合「海」は「世間」とか「恋」とかそういう「少女」に見せたくない何かへのメタファーということになりますよね。

 この歌、(これ、どこかで読んだのであって私自身が考えた解釈ではないのですが、いつどこで読んだかすら思い出せないです。すみません)他にも読み方があって、この歌の中では「われ」=自分と他者である「少女」がいるのに、「海を知らぬ少女」と(本来は見えないはずの)他者である少女の内面が説明され、「麦藁帽のわれ」と(本来は見えないはずの)自分の外見が説明される、といった構造的な面白さについても何かで解説されていたのを読んだことがあります。どちらの読み方からも、小島ゆかりが言う

 

彼は鮮やかな映像化によって、多くの虚構の<わたし>をそれまでの私小説的な<わたし>から離陸させた。

 

という、寺山修司が映像作品に向かっていった動機、「虚構の<わたし>」が読み取れるなー、と感動してしまった。。改めてこの歌すごいな…。

 

 そしてこの本も、改めてすごいです。また第四次短歌ブーム来たら読み返すわ…。読み返すたびに発見ありそう。

 

 もはや自作とは言えないレベルのパロディ短歌作りましたが、今(この歌作ったとき)の本心でした。

 

 

夢破れて山河あるらむ北上の岸辺に泣きて我れに五月を (yuifall)

 

 

現代短歌最前線-小島ゆかり 感想1 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-小島ゆかり 感想2 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-小島ゆかり 感想3 - いろいろ感想を書いてみるブログ

現代短歌最前線-小島ゆかり 感想4 - いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌タイムカプセル-小島ゆかり 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

「一首鑑賞」-62 - いろいろ感想を書いてみるブログ