「一首鑑賞」の注意書きです。
309.ぴょんぴょんと私が跳べば二人子は真似して跳べりどんな場所でも
(前田康子)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで大松達知が紹介していました。
穂村弘と堀本裕樹の『短歌と俳句の五十番勝負』の最後、五十番目のお題が「ぴょんぴょん」でした。確か出題者は馬場あき子だったような記憶があります。
「ぴょんぴょん」って難しいな、そんな短歌あるかなぁ、と思っていましたが、ここで出会っておおっ!となりました。これが優勝ですね笑。
私は単にとても無邪気な親子の光景として読んでいたのですが、鑑賞文を読んではっとしました。
これは、楽しい歌か、悲しい歌か。
(中略)
母親として子供の前に絶対的な存在としてわが子の前に立ちはだかり、その人生を先導してゆく。
(中略)
しかし、結句になって「どんな場所でも」が置かれる。
ここに引っ掛かりを覚える。
どんな場所でも? 公園や道端ならともかく、例えばスーパーの中や衆人環視の交差点や市役所のロビーとか?
ああー、そうか。言われてみれば、「どんな場所でも」は確かに引っかかります。普通に家とかを想定していましたが、不適切な場面、という考え方もできます。母親がどんなに不適切な行為をしていても、子供はそれを訳も分からず真似てしまう。あるいは、楽しいと思ってしまう。そういう怖さなのかもしれない。今朝たまたまニュースで、子供時代オウム真理教の施設にいた方のインタビューを見たのですが、入信した母親に連れていかれてそこで暮らし、救出された後もそこで教えられたことと外の現実とのギャップに苦しんだと話されていました。また時々痛ましい虐待のニュースなどを目にしますが、それでも子供は母親をかばうとよく耳にします。自分自身、幼い頃の悪夢で今でも一番印象に残っているのは母が死んだ夢です。母親を失う、ということは幼い自分にとって最大の恐怖だったんだろうと思う。母がやっていたら自分もぴょんぴょんくらいしたかもしれないな。どこであっても。
鑑賞文の最後の言葉がとても好きでした。
ああ、母親としてどうしたらいいのだろう。私は正しいのか、という問いもかすかに感じさせる「どんな場所でも」だ。
いや、そういう悲しさを打ち消すほどの楽しさが「ぴょんぴょん」の響きにはあるようにも聞こえる。
逆に、どんな場面であっても楽しんで生きることを伝えているようにも思えます。何があっても大丈夫、お母さんがいるから、と。私はやっぱり、いい歌だと思うな。
キッチンを私の城にできぬままぴょんぴょん跳ねてみたりしてます (yuifall)
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