「一首鑑賞」の注意書きです。
152.襟元をすこしくづせり風入れておもふは汝(おまへ)かならず奪ふ
(春日井建)
なんてかっこいいのだろうか。なんというか、時を経ても色褪せない普遍的なかっこよさですね。私はいわゆる少女漫画の俺様キャラとか好きじゃなくて、「お前を俺のものにする!」みたいなのは白けてしまうタイプですけど、そういうのとは別次元のかっこよさです。言うなれば、群れのボス的なさー。アルファ狼ですよ。時代が変わってもアルファはアルファじゃないですか。仮に自分がアルファ男性に惹かれないとしても、アルファとしてのかっこよさは分かるもん。
これは「半島にて」という連作の一首だそうです。他に、
誰も彼も泳ぎ去りにき性差(ジェンダー)を知らず波間にわがただよふに
ガウンまとふ下は裸の若者と勝負をかけてカードを切りぬ
などの歌が引用され、鑑賞文には
ここには、性差を超越して、ただ愛のために己を純化させんとする意志がある。すると却って、主体の視線は極めて男性的になっている点が興味深い。
とあります。
うーん、確かに、「ガウンまとふ下は裸の若者」は男性で、作者も男性だろうな、という感があります。古代ギリシア感のある一幕ですね。この「愛」はいわゆる「少年愛」というか、「プラトニック・ラブ」の気配を感じるものの、同時に女人禁制の雰囲気も感じさせます。
春日井建がまさにLGBTQ当事者であったことからするとBL的に読むのはポリコレ的にまずいのかもしれませんが、引用歌はなんというか、女性を介在させず、性差や生殖を超えたところで結びつく愛という、古のJUNE的ロマンを感じさせます。「奪ふ」のは「誰か」から、というよりも、「セクシャリティそのものから」という印象を受けます。つまり、異性愛という(マジョリティとして疑うことのなかっただろう)生き方からの逸脱という意味で。
冒頭に、
もう、こういう短歌を歌うことが出来る歌人は、現れないのではないか。そんな気がするほど、しびれるまでに決まっている。
とあります。
これは、「このように、性愛を劇画調に衒いなく詠むことはもうできないだろう」という側面もあるけど、同時に「同性愛をJUNE的に詠むことはもうできないだろう」という側面もあるのかな、と思いました。本能を超えた純粋な愛、生殖を超えて結びつく愛、死の愛、という観点で同性愛を語るのは、もはや当事者であっても難しいのではないのだろうか。現実的には権利などの部分や感情面で差別がなくなっていけばいいと思いますが、文学という視点でいうと
ゆるされてやや寂しきはしのび逢ふ深きあはれを失ひしこと (岡本かの子)
という面も否定できないのかもしれないな、と「かならず奪ふ」の歌を読んで考えたりもしました。
モノじゃないきみの差し出す両手だけ見ていたそれが欲しかったんだ (yuifall)