「一首鑑賞」の注意書きです。
47.死後の世界はないと唱えしホーキング博士は死にて車椅子残る
(小島なお)
これ面白いですね。我々は今、ホーキング博士の「死後の世界」を生きているというわけです。解説に
死後の世界とは敢えて言えば「わたし」、この場合ではホーキング博士にとっては存在せず、ただ遺された者たちにだけ存在するものなのではないか。車椅子の残ったこの世界は、博士以外にも無数の人びとの「死後」の時間が流れる、死後の世界だと言えなくはなかろうか。
とあります。わたしが死んでもわたしの死後に世界は存在するんだけどわたしの死後の世界はないのか。この断絶によって「世界」とは何なのかを考えさせられます。
それにしてもホーキング博士は、理論物理学という門外漢には全く理解できない分野の博士であり、難病ALS患者でもあり、全く凡人とは遠い存在のように思えるのに、なぜかアイコン的というかキャラクター的に親しまれているのが不思議ですね。発言が面白かったのでしょうか。色々調べてみると、死後の世界を否定したのは宗教的概念との対立だったようで、神の存在も否定していたみたいです。「死後の世界」=地動説とか進化論、みたいな感じだったんですかね。
もし死後の世界なんてあったら、恐竜から何からいるのかなぁ。地球上の生き物以外にも色々いるんだろうか。生活していた場所と死んだ場所が違っていても大丈夫なのかなぁ。死んだときの状態で行くのかなぁ。胎児とか受精卵とかはどう解釈されるんだろうか。元から染色体異常があって胎外では生きられなかった場合は?送り込まれる生命体(非生命体も含む?)の数は絶え間なく増え続け、その内容は圧倒的に微生物や昆虫の卵や植物の種が多そうですがその点はどうなんでしょうか。フィクションだと適切な数の人間だけが、しかも若かった頃の都合いい姿で存在しますが、それはないだろうと思う次第です。
この、「思い描く完璧な姿で存在する」というステレオタイプが好きではなくて…。フィクションで「死後の世界」が描かれるとき、キャラクターが病気のままとか、肢体不自由のままとか、老いた状態で描写されることってあまりない気がします(少なくとも今そういう作品を思い出せない)。難病で死んだ子供が駆け回っていたり、老いて死んだ女性が若く美しい頃の姿に戻って微笑んでたり…っていうのが割と典型的なイメージです。でも、ホーキング博士は車椅子のALS患者さんだったけど、じゃあ車椅子から立ち上がってきびきび歩いていたりするんだろうか。それが正しい姿なのか?
もし自分が病気や怪我で身体の自由を奪われたら、元に戻りたい、それが正しい自分だ、ときっと思ってしまうだろう。それは切ない願いだと思う。でも客観的に考えて、そうなってしまった人生が正しくなかったなんてことは絶対にないとも思うし…。
みんな、自分が「こうありたかった」姿でいるのかな。でもそうだったらそもそも姿かたちが自分である必要すらないわけで、結局自分が自分であることから都合よく逃げられるような死後の世界なんかないんだろうなって感じました。
死後の世界に車椅子はいらないの?くそくらえだよイデアなんてさ (yuifall)
短歌タイムカプセル-小島なお 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ