「一首鑑賞」の注意書きです。
174.殺したき男ぐらぐら煮てゆけば口あけて貝のごとき舌見ゆ
(加藤英彦)
この歌、最初作者名を知らず、恋愛の歌だと思ってリンク先を見たら作者は男性でした。まあだからと言って恋愛の歌ではないと言い切ることはできませんが、そもそも最初から恋愛に限定せずに読むべきだったなと反省しました。
現実に貝を茹でていて、ある一点でぱかっと口を開けて中身が晒されるとき、変な話ですけど、「あ、よかった、食べても大丈夫な貝だ」って思ってほっとする気持ちがどこかにあります。なので、この歌では、「殺したき男」の口が開いたとき、ほっとしたんじゃないか、って咄嗟に考えてしまいました。もちろん「男」を「貝」と同じ読み方してはまずいでしょうが、実際に煮ているわけではないのだろうし…。言うなれば、「あ、今だな。今死んだな」みたいな、ドラスティックな変化の一瞬です。だから、この「男」は、作者に害なす存在だったのではないだろうか、と想像しました。
鑑賞文には
暴力という湯が滾る日常にひりひりと灼かれゆきし向日葵
という歌が引用されています。この「殺したき男」を「ぐらぐらと煮る」湯は、「暴力という湯」だったのだろうか。そう読むと、「口あけて」舌が見える、というのは、腹を殴りつけるみたいなシーンがイメージされます。
ところで、貝を茹でる歌、というと、
「死ぬときは一緒よ」と小さきこゑはして鍋に入りたり蜆一族 (小島ゆかり)
を思い出します。「殺したき男」の歌も、鑑賞文によれば
掲出歌の場合、その背景には家族関係があるらしいが、それはこの場ではまあいい。
とあり、貝にはなんとなく「一族」を連想させる側面があるのかもしれません。しかし、この「殺したき男」が家族のことであるとすると、やはり「暴力の連鎖」ということを意識してしまい、やるせないですね。鑑賞文にも
その舌を煮るのもまた、「暴力という湯」であれば、全ての悲しみは繰り返す他ないのだろうか。
とありました。
そう僕はサカナの目をした人形だかわいいプラスチックのハート (yuifall)