「一首鑑賞」の注意書きです。
133.まよなかのメロンは苦い さみしさをことばにすれば暴力となる
(兵庫ユカ)
砂子屋書房「一首鑑賞」で魚村晋太郎が取り上げていました。
さみしさが暴力になるのは、本当は、どうすればさみしくなくなるのかが分からないからだと思いました。
鑑賞文には
思いあっているけれど、逢えないふたりがいる。
それとも、逢うだけではとげられない、なにがしかの思いがあるのか。
さみしさを口にだしてしまうと、その言葉は相手のこころを傷つけ、関係をこわすことにもなりかねない。
とあります。
例えば遠距離恋愛とか不倫とかで、簡単には会えない状況で、あなたに会いたい、でもそう口に出すのはあなたを傷つけるだけ、という意味と読むことはできると思う。だけど、じゃあもし会えたら、あるいは正々堂々と一緒に暮らせるような関係になれば、さみしさってなくなるものだろうか。
私は、そうじゃないと思う。そのさみしさは「あなた」が埋められるものじゃない。だからこそ、それを誰かに要求することは暴力なんだと思う。だって、じゃあ、誰かのさみしさに自分は応えられるのだろうか。全身全霊をかけて、その得体の知れない沼を埋めることはできるだろうか。そんなの無理じゃないですか?きっとこのメロンは、「まよなか」に食べなかったら苦くはないと思うんだよね。この「さみしさ」も、いつかは過ぎ去っていくものだって分かってるの。
でも、鑑賞文に
下句は一種の箴言として読むこともできるが、ひとりの女性の一回性の思いとして読んだほうが、そのせつなさは際だつ。
とあるように、ある恋愛の一場面として読んだ方が上の句が生きてくるとは思います。今苦いの、だから今ここにいてよ、っていう暴力的なさみしさ。
ところで「まよなかのメロン」で、以前ネットニュースで見たこれを思い出したよ…。
わたしのことどのくらいまでゆるせるの? 半袖着れなくなってもいいの? (yuifall)
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