「一首鑑賞」の注意書きです。
175.また君を撃ってしまった正論で築いた城に今も暮らして
(今紺しだ)
砂子屋書房「一首鑑賞」で井上法子が取り上げていました。
これ読んで矢井田瞳の B'coz I Love You の歌詞を思い出しました。
私が正論を主張する程
貴方を押し付け追いつめ逃げ場をなくし苦しめてた
私も子供の頃よく言われていたことを思い出します。正論を主張するのは勝手だけど、人間関係は好き嫌いで決まるんだから、嫌われたら終わりだと。正論で築いた城、が、学問の城であれば話は別ですが、人間関係であれば、それは砂上の楼閣だと思う。学問であってもそれほど単純ではないのかもしれませんが。
作者のことは全然知らないのですが、若い人なのかも、って感じた。もしかしたら、若い頃は、自分の「城」を守るために人を撃ちまくらなくてはならない時期が誰にでもあるのかもしれない。でも、逆に、自分自身が、誰かに正論の「城」を守るために撃たれたことがあるかと考えると具体的に全く思い出せません。誰もが、自分だけは他人を責めるのは仕方ない、それは「正論」だから、っていう思いで自分の「城」を守っているに過ぎないのかもしれない。だから、ここで描写されている「正論」が本当に「正論」であるかは本当は誰にも分からないことなのかもしれない。
鑑賞文には
いつかは「城」から自身を解放して、あるいは「城」そのものを開放させて、
「正論」に依らない交流を積まねばならないということは、とうにわかっているというのに。
と書かれています。
「君」と描写されるほど親しい誰かとの関係を詠っていると考えると、自分自身が、いつ、「城」を失ったのかは分からない。具体的に「いつ」っていう、ドラスティックな出来事があった記憶はありません。でも時々、自分に「正義」があると信じると攻撃的になると自覚する時があって、そういう目で見た時、この歌は「ネット上でのバッシング」とか「仕事上のやり取り」とかそういう読み方もできるのかも、と思いました。強固な「正論」の城の中から無防備な見知らぬ誰かを狙い撃ちする現象として。今、「論破」とか流行ってますもんね。
ほんとうは砂じゃないんだ この城は粒子で(あるいは波で)できてる (yuifall)