「一首鑑賞」の注意書きです。
188.潮のおと耳より心に入れながら脱にんげんの一瞬もある
(伊藤一彦)
砂子屋書房「一首鑑賞」で井上法子が取り上げていました。
最初はすんなりと「潮のおと耳より心に入れる」→潮騒を聴く、「脱にんげんの一瞬」→忘我、のように読んでいたのですが、「脱にんげん」でちょっと引っかかって、これって「人でなし」って意味じゃないよね?って混乱して読み直した。自分がこういうところで読みに引っかかってしまうのいつも嫌だなって思うんですが(だって文脈的に明らかにそうじゃないので、すんなり読めないのとても疲れる)、癖だから仕方ないとも思う。で、色々と考えた結果やっぱり「忘我」でいいだろうと…。
「心」は「こころ」ではなく「しん」とルビがふってあるそうです。「しん」「にんげん」「いっしゅん」と韻を踏みながら、波のようなリズム感を出しているのかもしれません。また、鑑賞文にもあるように「芯」という意味も掛けているのかもしれない。
「潮のおとを聴く」という言い回しから、貝を耳に当てる様子が思い浮かびます。だから「脱にんげん」は貝の中身になったような…、という感じもする。また、海というシチュエーションから
われらかつて魚なりし頃かたらひし藻の蔭に似るゆふぐれ来たる (水原紫苑)
を連想しました。
自分自身が自分の身体を超えて拡張していく感じ。波の音にはそれを実感させる何かがあるのが分かるし、その感覚が「脱にんげん」という言葉で鮮やかに切り取られていると感じました。
あのころの全てがぜいたく品でしたいとこも潮の音を聴くことも (yuifall)